が物を言う。君、櫓《ろ》が押せるかね、押せるなら、ひとつこれで乗切ってくれ給え、あの鳴り物の音をたよりに――待ち給え、この舟がここに乗捨てられてある以上、ここから沼沿いに路があるだろう、その間道をひとつたずねて見給え」

         二十五

 そもそも、田山白雲のこのたびの北上の目的というものは、一石二鳥をも三鳥をも兼ねたものでありました。
 その一石は、いま現にほぼ証跡をつきとめ得たらしいところのマドロスと、兵部の娘を取押えんがためでありました。目下、松島湾の月ノ浦に碇泊しているところの駒井甚三郎創案建造の蒸気船、無名丸から脱走して来たところの駈落者《かけおちもの》なのであります。マドロスは生国の知れぬ外国からの漂着者であり、兵部の娘は素姓《すじょう》正しいものですけれども、いささか精神に異常を呈し、肉体に不検束を持っている女であります。この二人が最近、無名丸から脱走したのを取押えんことも、田山白雲の北上の一つの目的でありましたが、他のもう一つは、仙台城内の秘宝を覘《ねら》って、九分九厘のところで失敗した裏宿の七兵衛という、足のはやい不思議な怪賊の行方をたずねんがためでありました。
 それから、もう一つは、本業たる画師としての画嚢《がのう》を満たさんがために、未《いま》だ見ざる名山大川に触れてみようというのと、持って生れた漂泊性を飽満せしめようとの本能もありました。
 そうして、ゆくりなく、この渡頭に立って見ると、たずねるところのマドロスが、遠眼鏡の視野の中に完全に落ち来ったものですから、いずれにしても、この向う岸を距《へだた》ること程遠からぬ地点に潜在しているのだ。だが、茫漠たる地形であってみると、これは白昼に草の根を分け探すよりも、むしろ夜間を選んだ方がいい、というのは、火食を知って以来、人類の生活には火が附いて廻る。内部に向って食物を送るためにも、外部よりして体温を摂取するためにも、光を起して自ら明らかにし、他の暗黒を救うためにも、火は人生の必須であって、人生すなわち火なりという哲学も成り立つ。そこで、火を認め得れば必ず人があり、人のあるところには必ず火がある。そうして、火というものは、昼間に於てよりは、夜間に於てその存在をいっそう明瞭にする。
 こういう見地からして、田山白雲は特に夜を選んで駈落者の所在を探索に、ここへこうしてやって来たというわけな
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