使用の済み次第、その本来の所有主に返却しなければならない。そこで、この律義一遍の生一本な野人は、当然その義務を果すべく舟を漕ぎ戻し行くものに相違ないのです。しかし、それだとしては少々水先が変である。舟を貸すようなところは、あちらの臨湖の岸であって、この廓壕のようなところを漕いで行けば、当然、廃墟の行きどまりへ着いてしまう。その辺に、貸舟業者の河岸があろうとは思われない。
しかし、米友は、遠慮会釈なく、その廓壕の中の蘆間へ舟を操って行きましたが、暫くあって、
「あっ!」
と言って舌を捲いて、棹をとどめて小舟の中に立ちっきりになって、その円い目をクルクルと驚異させました。
物に怯《おび》えないこの男も、驚くことはあるのです。驚くというのは、予期し、或いは予想していたことより、相当、或いは全然意外な事体が展開された時に起る人間の感情なのですから、米友が、「あっ!」と言って、眼をみはって、突立ってしまったからには、その見つめた方向に於て、全く予想も予期もしなかった或る現象が現われたからなのでしょう。鬼でも出たか、蛇《じゃ》でも出たか。いや、そんなはずはない。本来、琵琶湖の湖辺は決して猛獣地帯ではないことは、前にも述べた通りで、いかに古城址の廃墟のあとを訪ねたからとて、ジャングルの王者が現われて来るような憂いはないのです。
米友が「あっ!」と舌を捲いたのは、存外平凡な光景なので、この堀の湾入の行きどまるところに、ふり、形の面白い一幹《ひともと》の松があって、その下に人間が一人いたからです。その人間とても、松の木にブラ下がって、足を宙にしていたわけでもなんでもない。その幹のところにうずくまって、悠然として釣を垂れている人が一人あっただけです。
木の下に人が一人うずくまって、水の中へ釣を垂れているという光景は、どう見直したとて、しかく仰山に「あっ!」と言って舌を捲いて、驚かねばならぬほどの現象ではないのです。むしろ、極めて平和な別天地の、ゆうゆうたる光景でなければならぬ。それを、米友ほどの豪傑が、水馴棹《みなれざお》を取落さぬばかりに驚いて、「あっ!」と舌を捲かしめた先方の人影というものは、よく見る尾羽《おは》打枯《うちから》した浪人姿で、編笠をかぶって謡をうたったり、売卜《ばいぼく》をしたりして露命を行人の合力《ごうりき》によって繋ぎつつ、また来ん春を待つといった在来の
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