んてい》を見ると、野侍のようなのがあり、安直な長脇差風のもあれば、三下のぶしょく[#「ぶしょく」に傍点]渡世もあり、相撲あがりもあり、三ぴんもあり、折助風なのもある。これらがいずれも血眼《ちまなこ》になって、岸に飛びうつって来ると、早くもお角親分の大陽気な一座をめがけて、突進というほどではないが、実は突進も乱入も致しかねまじき気合を含んで、ぞろぞろと取りつめて来たのは、どうも穏かでない空気があって、その穏かでない空気は、お角親方の一行に、微塵《みじん》も好意を持っていない一まきであることがわかります。
これは果して推察の通りで、道中筋から上方《かみがた》にかけて、最初から、道庵の西上を喜ばぬものがあり、お角の乗込みに鬼胎《きたい》を抱いている一味があったのです。
幕末維新の前後は、名分から言えば勤王と佐幕の争いでありましたが、地理的に言えば関東と関西との勢力の争いであるし、もう少し遡《さかのぼ》ると、大阪へ定めた豊臣の勢力と、江戸へ奪って(?)しまった徳川の勢力に対する三百年間の因縁がある。政治的には関東へ取られたが、経済的には、実力的には……文化的には、曰《いわ》く、何々、関以西のある一角には、絶えずその対抗意識が含まれていたものと見れば見られる。いわば、関ヶ原以来の遺恨角力が、王政維新のあたりまで、まだじゅうぶん根を持っていると見れば見らるべき事情はあるのであります。
西と言い、東と言い、ひとしくこれ万世一系の聖天子の王土であるが、そこは凡夫の浅ましさ、事毎に、多少の対抗意識の現われることは、笑止千万と言わねばならないが、ことに笑止千万なる一つの実例は、この道庵と、お角とを、只《ただ》では京大阪の地を踏ませまいという、一味の通謀策略の如きであります。
その以前、関東|名代《なだい》の弥次郎兵衛、喜多八両名士が、聯合軍を組織して西国へ乗込んだ時の如きも、大阪方に於ては、弥次と喜多とを、このまま無事にやり過ごしては、未来永劫、大阪の名折れになる、海道を我物面に、横暴にのさばり返って西上して来る弥次と喜多との聯合軍に、眼にもの見せてやらなければ、大阪の名折れである――そういうところから義憤を起して、大阪を代表して、立ちもし、立たせもしたところの豪傑が、河内屋太郎兵衛、一名を河太郎という人物でありました。
河太郎を押立てて、弥次と喜多との鼻っぱしを取りひしいだ
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