ですか、この夜中に、あの人たちが……」
「ところが、どうです、お松さん、そらごらんなさいませ」
「どうしました」
「そら、バッテイラが戻って来ます、海の上を真一文字にバッテイラが、こちらへ向って来ます――バッテイラの舳先《へさき》には、カンテラが点《つ》いています」
「本当ですか」
「本当ですとも――お松さん、あたいの眼を信用しなさい」
と清澄の茂太郎は、海の彼方《かなた》の万石浦《まんごくうら》の方を見つめながら言いました。
 茂太郎から、眼を信用しろと言われると、お松もそれを信用しないわけにはゆきません。茂太郎だの、弁信だのというものの五官の機能は、特別|誂《あつら》えに出来ているということを、日頃から信ぜざるを得ないのです。だが、この夜中に、あの駈落者の二人が、舟で舞い戻って来るとは考えられない。
 そこで、半信半疑で、お松も暗い海の面をながめやりました。

         百四十三

 だが、ほどなく、茂太郎の予告の確実性を、事実がよく証明してくれました。
 漁船の中を押しわけて、万石浦方面から飛ぶが如くにバッテイラが漕ぎつけられて来るのは、その舳先のカンテラの進行だけでもよくわかる。
 それと知って、船の乗組は一度に動揺しました。
「なに、マドの奴が帰って来たと、よく面《つら》を面と戻って来やがった、今度こそは、とっつかまえて、ぶっちめろ」
 さすがに訓練されたこの船の水夫たちが、手ぐすねを引くのも無理のないところであります。
 お松は、それをなだめるのに力を尽しました。
「たとえ、あの人が悪いにしても、戻って来たからには、きっと、後悔をして、お詫《わ》びをするつもりで来たのでしょう、それを、いきなり手込めにはできません、船長様の御裁判を仰いで、それから処分をしなければならないのです、皆さん、決して、手荒なことをなさいますな」
 ほどなく船腹へ漕ぎつけられたバッテイラには、紛うかたなきマドロスがいる。兵部の娘らしいのが面《かお》を蔽《おお》うて寝ている――
「田山先生」
と、お松が一番先に出て、このバッテイラを迎えると、当然、保護して来たと思われる田山白雲らしい姿も、声もないのが、やや異常に感じさせました。
「この船は、駒井甚三郎殿の無名丸でございますな」
 容貌|魁偉《かいい》なる田山白雲の姿の見えない代りに、短身長剣の男が一人|舳先《へさき》に突立っ
前へ 次へ
全276ページ中196ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング