にかけた鉄桿の上から、マドロスが真黒いものを一つ取って、娘の枕元へ差出すと、娘はちょっと横を向いて、ちらとその黒いものを見やり、
「何なのそりゃ、マドロスさん、いやに真黒なもの、何なの」
「焼餅デス、サッキ渡シ場ノ船頭サンカラ、貰ッテ来タデス、色ハ黒イケレド、ナカナカオイシイデス」
「わたしには気味が悪くて食べられない」
「食ベナイト、オナカスクデス、オナカスクト身体弱ッテ、コレカラ黒船マデ行ケナイデス」
「だって、食べたくない」
「オアガリナサイ、無理ニ食ベテ元気ヲオ出シナサイ」
「食べられません」
と言って、娘はこちらを向いてしまいました。この黒い焼餅こそは、先刻、このマドロスが生命《いのち》がけで渡頭の船頭小屋へ闖入《ちんにゅう》して、そこから掠奪して来たものです。そうして逃げ出すところを、船頭父子に追いつめられて、命からがら逃げのびて来た、その光景を向う河岸の小高いところに据えつけていた遠眼鏡を取って、いちいち田山白雲に認められてしまった、あれなのです。
 そういう思いをして得て来た生命がけの糧《かて》を見ること、この娘さんは土芥《どかい》にひとしい。
「ああ、もう日が暮れるじゃないの、また今晩もこんなところで――ああ、わたし、いや、いや、誰か迎えに来て下さい、茂ちゃん――七兵衛おやじだといいけれど、あの人はいないし、田山先生だとなおいいけれど、あの先生も旅に出てしまった、誰か探しに来て下さい」

         十五

 自暴《やけ》をまる出しに、娘の調子が少しずつ声高《こわだか》になって行くのに狼狽したマドロスは、
「オ嬢サン、大キナ声ヲシテハイケナイデス」
「だって――今晩もまたこんなところで夜を明かさなけりゃならないとすれば、わたし、もうたまらない」
「モウ少シノ辛抱デス、日本ノ唄《うた》ニモ、オ前トナラバドコマデモ……トイウ唄アルデス」
「いやよ、マドロスさん、わたしはお前さんと苦労をするために、無名丸から逃げ出したのじゃなくってよ、お前さんが、あの大きな黒船に乗せて、御殿のようなキャビンの中で、王様のように扱われて、そうして異国の土地へ着けば、町々はみんな御殿のようで、金銀は有り余り、珍しい器械道具が揃《そろ》っていて、人間はみんな親切で、何から何まで結構ずくめの外国へ連れて行ってあげるなんて言うから、ついその気になってしまったの。それなのに、
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