峠の山を遠く眺めて、歯ぎしりをしました。
 今日只今ここに立って見ると、見ゆる限りは水です。この水は潮ならぬ海とはいうけれども、潮の有ると無いとを論ぜず、米友の眼では満目の海を眺めて舌を捲いたが、詠嘆の次に来《きた》るところのものは伊勢の海の風光でした。伊勢の海以来、米友は海を見たことがない。海を見たことがないとは言えないけれども、伊勢の海だけが、生涯のうち全く忘れがたなき海の印象として残されている。
 ことにあの、大湊《おおみなと》の一夜――あの時に、あの晩に、お君を擁護して大湊の与兵衛の舟小屋をたずねなければ、こういうことはなかったのだ。あれがああなって、ああいう義理で、あの旅の武士のために、危機を冒してあの大湊の与兵衛の舟小屋をたずねなければ――
 米友は物を見ると聯想が早い。米友のは聯想が忽《たちま》ち混線となる、混線がやがて無差別となる。一時はすべての若い女がみんなお君の姿に見えたことがある。今や琵琶の湖も、伊勢の海も、米友の頭の中ではごっちゃになり、今の時も、大湊の一夜の時も、差別がつかなくなってしまいました。
 だが、本来は馬鹿でないこの男は、忽ち醒《さ》めて、そうして、確《しか》と湖水の四方の陸と島とを弁別してから、以前の庵のところに立戻って来ると、弁信法師は以前のままの姿で首低《うなだ》れて考え込んでいましたが、やがて言いました、
「米友さん、わたくしは暫くひとりでこの島に留まりますから、あなただけお帰り下さい、帰って胆吹山の皆さんに、よろしくお伝え下さい」

         百三十八

 牡鹿半島《おじかはんとう》の月ノ浦に碇泊している駒井甚三郎が新規創造の蒸気船「無名丸」の、檣《マスト》の上の横手に無雑作に腰打ちかけて、高らかに、出鱈目《でたらめ》の歌をうたい込んでいるのは清澄の茂太郎。
 今晩は星の夜です。最初のうちは無言に星の数を数えていましたが、天文に異状なしと認めて、それから例によって出鱈目の歌にとりかかりましたのです。
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ジンド・バッド・セーラ
ジンド・バッド・セーラ
ジンド・バッド・セーラ
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 これを、幾度か声高らかに、高いマストの横手の上で唱え出したものですから、静寂な石巻湾の天地に響き渡りました。
 あたりにもやっている船でも、港の漁家でも、このごろはさして、それに驚きません。
 
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