に宿屋を営んでいるというものはなく、頼めばどこでも泊めてくれる。
だから、特に客座敷というものもない。木地《きじ》小屋が空いているからといって、そこへ泊めてくれました。
別座敷へ特に優遇の意味です。
兵馬は、女がすすめるのも聞き入れず、草鞋《わらじ》を取っただけの旅姿で夜を明かすべく、炉辺の柱にもたれていました。
「わしは旅に慣れているから、これでよろしい、君は慣れない身でもあり、薄着で困るだろう――」
と言って、自分の合羽《かっぱ》をまで女の薄い蒲団《ふとん》の上に投げかけて与えました。
女は、いろいろとお詫《わ》びしながら、先に寝入ったのです。
この小屋は、特に木地の細工をするために建てたのですが、壁がありません。がっちりとした板囲いです。
夜もすがら室内の気温を保つ意味に於て、絶えず適当の焚火《たきび》を怠りませんでした。
疲れが出たものか、女はすやすやと寝入ったようです。
兵馬としては、こういう旅の宿りは今にはじまったことでないが、ただ気がかりになるのは前途のことです。およそ白山《はくさん》、白水谷を越えて、飛騨の国から、加賀へなり、越中へなり、出ようとする道は、道であって道でない。
こういう道を踏み破ることは、自分はあえて意としないが、この女連れだ。この女は、こうして行けばひとりでに白山へも登れるし、金沢へも出られると心得ているらしいが、さて、明日からの旅の実際の味を嘗《な》めさせられてみると、へたばるのはわかりきっている。今晩はここで宿があったからいいが、明日の晩からの宿りは当てがないのだ。
よし、明日になったら、ひとつ案内人を求めてみよう。それから、馬が通うか、通わないか、山駕籠を金沢まで通して雇えるものか、雇えないものか――そのへんもひとつ確めてみてやろう。
体《てい》のいい駈落者だ。駈落ならばまだ洒落気《しゃれっけ》もあるが、実はこの女のために、体のいいお供を仰せつかったようなものだ。それもよろしい、自分はこのごろ観念した。
すべて、追い求めるものは与えられないように出来ている。求めざるものが降りかかって来るようにこの世は出来ている。そこで自分は観念したのだ、決して追い求むるもののためにあせる[#「あせる」に傍点]まい、降りかかって来たものを避けまい。
これが、このごろ出来た自分の一つの公案なのだ。降りかかって来たものを蹴
前へ
次へ
全276ページ中164ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング