知れず、斬った当人は相当身分のありそうな姿をしていたが、それも一目散に逃げてしまって行方がわからない。
これによって見ると、神尾主膳は一旦むらむらとして、例の病気から、前後を忘れて脇差を抜いて、通りがかりの者をひとたち斬ったには相違ないが、血を見た瞬間に自分も醒めたものらしい。酒乱の時は知らぬこと、今日は乱れるほど酒を飲んでいない。むかっとやっつけたが、血を見た瞬間、これはやり過ぎた! と覚ったものと見える。そうして自分は群集の中へ殺到するように見せて、実はその中を突抜けて、早くも身を隠してしまったのだ。その行きがけに鐚をも振り飛ばして、何でもかまわず早く逃げろと言った。
この要領で、加害者側の二人は姿を消してしまったのだが、気の知れないのは斬られた方の被害者です。
理不尽に斬りつけられたのだから、驚くのは当然であり、驚いて一時は前後不覚に逃げ出すのも当然であるが、それも程度問題で、後顧の憂えがなくなってしまいさえすれば、改めて訴えて出るか、身辺の人に、その危急を物語るとか、そうでなければお医者へ駈込むとか、担《かつ》ぎ込まれるとか、何とかしなければならないのに、こいつがまた全く行方不明でありました。
だから、この騒動は、動揺だけはずいぶん烈しく、いまだに附近の人心は恟々《きょうきょう》としているのですが――当事者は、加害被害ともに跡かたもなくなっている。騒動は騒動だが、狐につままれたようになっている。
「斬ったのは、身分ありげな侍だ」
「斬られたのは、水戸の百姓だ」
「斬ったやつには、お供が一人ついていた」
「そいつはたぬき[#「たぬき」に傍点]のような奴だった」
「斬ったおさむらいは、旗本のおしのびらしい」
「斬られたのは、水戸の百姓」
どちらも根拠のある説ではないが、斬られた方を、水戸の百姓ときめてしまったのがおかしい。
かくて、神尾の行方はわからないが、鐚は鐚であれから一目散に、横っ飛びに飛んだけれども、本来、転んでも只は起きないふうに出来ている男だから、横っ飛びにも一定の軌道があって、まもなく同じ三輪の町の、とある非常に大きな構えの門内へ飛び込むと、雪駄《せった》を片足だけ玄関の上に穿《は》き込んで、
「た、た、たいへんでござります」
と言って、頬っぺたを抑えたままその玄関に倒れると共に、息が絶えてしまったのはかわいそうです。
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