で、すごすごとまたここまで舞い戻って来たということが、白雲をして面食《めんくら》わせることほど、意外千万な引合せであったからです。
十一
「どうしたのだね、君」
あまりのことに、田山白雲が身近く寄って来たところのこの男に向って、かく呼びかけざるを得ませんでした。
「忘れ物をしました」
「忘れ物、何を忘れたのです」
「手形を忘れました、旅行券を」
「なるほど――」
その手形というのは、さいぜん、現にここで、この男が懐中からさぐり出して役人に提示して見せたのを、現に田山白雲も見届けておりました。
あの際、紛失したのか、或いはここを出て暫く行く間に取落しでもしたものか、いずれにしても、粗忽千万《そこつせんばん》の咎《とが》は免れない。隙のないようでも、若い者の手はどこか漏れるところがある。これから先、山河幾百里の関柵《かんさく》をあけて通る鍵だ。その唯一の旅行免状を取落して何になる。これではさすがの強情者も、浮かぬ面をして取って返さざるを得ない出来事だと、白雲も思いやりました。
しかし、事実はここで役人に提示したのだから、これよりあとへ飛んで戻るはずはない。柳田平治はまず店先よりはじめて、その辺を隈《くま》なく探し求めましたけれども、ついにそれらしい何物もありません。
柳田はついにその長剣を背中へ廻して、低い縁の根太《ねだ》の下まで探してみたけれども見出せないのです。白雲も同情して、そこらあたりを漁《あさ》って見てやったけれども、発見することができません。
さしもの豪傑も、ここに至っていたく銷沈気味でした。
茶店の老爺《おやじ》も気の毒がって、炉辺のござ[#「ござ」に傍点]までめくって見せたけれども、附木《つけぎ》っ葉《ぱ》と、ごみ[#「ごみ」に傍点]と、耳白《みみじろ》が三つばかりあるほかは何物もありませんでした。もしやと、少し下りて船頭小屋から渡し場のあたりまで調べてみたけれども、ついにそれらしい何物もありませんでした。
「もうやむを得ん」
と言って柳田平治は、腕組みをしたまま突立って、川原の彼方《かなた》を無念そうにながめました。
居合にかかろうとする瞬間である。問題はそこだ。そこでいったん懐中へ蔵《しま》い直したはずの手形が紛失したのだ。
「どうも見えないね、君」
白雲は慰め顔にこう言うと、腕を拱《こまね》いていた柳田平治が
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