、ことごとく謝絶してしまっておりました。
 それを、近ごろになって、与八が伊太夫に頼んで再び公開のことを申し出でたのを、今度は伊太夫がすんなりと承知してくれました。その上に、設備万端の費用もおかまいなしというようなわけで、与八の前へ棟梁《とうりょう》を呼んで、自分から言いつけて工事をやらせるという徹底ぶりにまでなったのですから、与八の本望は申すまでもなく、大工さんたちも、
「わたしたちもこれで願いがかないました、この仕事は人助けのためだから」
と言って、奉仕につとめてくれたことですから、日ならず立派な公開浴場が出来上りました。
 遠近、聞き伝えて欣《よろこ》ぶことは容易ではありません。病人たちは、その噂だけで再生の思いをした者もありました。
 木の香新しい浴室の中央へ地蔵様を据えつけると、与八はそこで風呂番をつとめました。そうして湯加減を見るために、いつも最初の朝湯は与八自身がつとめました――というのは、一つはこのお湯の効目を、とかく病身がちな郁太郎というものに蒙《こうむ》らせてやりたいということも、最初の希望の一つであったのです。
 そこで風呂が沸くと、与八は真先にお毒見をするつもりで、郁太郎を抱いて新湯を試みました。
 ある日、与八が余念なく入湯していると、その姿を立って眺めているお婆さんが一人ありました。このお婆さんは、きりりと身ごしらえをして、かなり道中の雨露を凌《しの》いで来たと見られる手甲脚絆《てっこうきゃはん》をつけて、笈摺《おいずる》のようなちゃんちゃんこを着て、そうして、草鞋《わらじ》がけで竹の杖をつき立てて、番台の下まで進んで来たのですが、どうしたものか、そこですっかり与八をながめ込んでしまったのです。
 与八は、そんなことにはいっこう頓着なしに、しきりに郁太郎を手拭で撫でさすっておりましたが、やがて、眼を上げて見ると、番台の下に矍鑠《かくしゃく》たるお婆さんが一人、突立ってこちらを見ているのに気がついて、急に大きな頭を一つ、がくりと下げ、
「お早うございます」
と、例によって、馬鹿ていねいに挨拶しますと、右のお婆さんが、
「お前さんは、いい人相だねえ」
 挨拶を返すことを忘れて、惚々《ほれぼれ》とこう言って感歎の声を放ちます。
「へ、へ」
 与八としては気のいいえがおをもって、お婆さんの感歎に答えるだけでした。

         八十四


前へ 次へ
全276ページ中116ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング