極めて円満に成立したのだが、数字的にはなんらの具体化がない。万事相当のところで、且つその上に骨折り賃まで添えて買ってやるとまで出たが、その相当のところという評価の数字が両者の間に一致しているわけではない、相当といって相当以上を渡されるのか、その以下をあてがわれるのか、がんりき[#「がんりき」に傍点]の野郎も度胸を据えて、わざと数字にはこだわらないでいると、先方から、
「さあ、渡すから手を出せ、右の手を」
「あつ、つ、つ」

         八十二

 不意に、がんりき[#「がんりき」に傍点]の奴めが、
「あつ、つ、つ」
と叫びを立てて飛び上ったので、さすがのお銀様も思わず座を立ちました。そうすると、やにわにがんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、その前を横つ飛びにつっ切って、座敷の外へ飛び出したかと思うと、入って来た時のように、物静かに姿を消してしまいました。要するに、もとはいって来たところから逃げ去ってしまったものでしょう。
 いったん驚いて立ち上ったお銀様は、座敷の中を見ると、畳の上にぽたぽたと落ちて、線をひいているものがある。行燈《あんどん》を提《さ》げて来てよく見るまでもなく、それは血の塊りでありました。
 その血を次第に点検して行くと、あちらの間の六枚の屏風の下のところに、小さな物が一かけ落ちている。熟視すると、それは殺《そ》ぎ落された人間の小指一本であります――
 ややあって、お銀様は火箸を取って、その小指をつまみ上げて、懐紙の上に載せて見ました。
 言うまでもなく、今のあのならず者が落して行ったかたみである。その名残《なご》りとして、そこから点々と血の滴りが糸をなして、自分の座敷を横断している。
 お銀様は小指を包んで、一方にさし置き、それから、雑巾を提げて来て、畳の上の血の滴りを静かに拭いはじめました。
 その間、向うの座敷でも何とも言わず、お銀様もまたその仔細をたずねようともしなかったのですが、あの白々しい取引があれまで進んで、いざ、現なま[#「なま」に傍点]を渡そう、受取りましょう、というところになって、不意にこんな現象が出来《しゅったい》してしまった。
 お銀様としても、いまさら指一本ぐらいのことで、仰々しく騒ぐのも大人げないと信じたのでしょう。また、たとえあんな奴にしてからが、ここで真向梨割《まっこうなしわ》りにでも成敗された日には、あとの
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