した。
しかし、この不祥千万な光景も、検視が進行し、掃除が励行されると共に、ほとんど何の痕跡もとどめず、早朝に来たものでさえも、そんな不祥がこの場で行われたということを気づくものはありません、水を流したように綺麗になってしまいました。あとから目の色を変えて見舞に来た遠方の檀家《だんか》の者に向って寺男が、
「そんなことがござんすまいことか、おおかたお花さん狐が、ちょっとお道楽にそんな芝居をして見せたまでのことでござんしょ、ごらんなさい、松の木の下の池のほとりも、塵一つ汚れちゃおりませんがな。だが、このほとり近いところに、そういう噂《うわさ》があってみると、御油断なすっちゃいけません」
全く、悪魔の領域は夜だけのもので、昼になって見ると、惨劇も、腥血《せいけつ》も、夢より淡いものになりました。お寺の境内には小春日和がうらうらとしている。その日中に、少女を一人連れた参詣の女客がありました。ちょっと見ては、またかと思われるほど――この女の参詣客は覆面をしておりましたのが、昨晩のあの第二の覆面とよく似ております。
よく似てはいるが、内容はたしかに似ても似つかぬ男と女とです――今日の日中の覆面の女客は、杖も持っていないし、刀も帯びてはいないが、覆面の覆面たることは同じであります。
六十五
覆面の覆面たることは同じですが、少女に言わせたこの覆面の女の参詣客は、玄関に立って、寺役に向っての特別の申入れの次第はこうでした、
「恐れ入りますが、御殿を拝見させていただきたい」
おりから、近き日数のうちに行わるべき秋季の法要と、宝物展看の準備のために忙がしかった寺役は、極めて寛大に、
「どうぞ、ゆるゆる御自由にごらんくださいませ」
拝観料何程と徴収もしない代り、特に誰かが附添って、説明と監視とに当るという設備もなく、その身そのままで、自由なる室内の拝観を許されたのでした。
そこで、覆面の客は少女を後に従えて、ずっと玄関を通ってしまって、ゆるゆると内部の見学にとりかかったのだが、それにしてもこの女客は、堂内へ入ってすらもその覆面を取ることをしませんでした。覆面をしたままで、堂内を隈《くま》なく見学にとりかかりましたのです。
寺の人が誰も附添わないし、またどこにも看視の人が附いていないとは言いながら、この態度は甚《はなは》だ不作法のものと言わなければなら
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