物蔭に隠れていて、見届けて帰るのを習いとする、とある。
ここ、大通寺の玄関の松の下に、一旦わが子を捨ててみはしたけれども、時あって誰も拾いに来る人がない。
母なる人は、鼓楼の蔭あたりで、一刻も早く温かなる手の拾い主を期待していたのだが、容易に人の視聴を聳《そばだ》てないことほど、この棄てられた子がおとなしい子でありました。
むしろ、火のつくほど泣き叫んでくれたならば――遥《はる》か彼方《かなた》を通る夜廻りの者か、寺の庫裡《くり》の料理番か何人《なんぴと》か、夢を醒《さま》す人もあろうのに、いい機嫌で笑い出されてしまったのでは、とりつく島がない。
もう、たまりかねて、母親が自分の手で回収に出かけたものです。ただ、その母親が子を捨てるほどの母の姿としてはいささか異様に見えないではありません。白衣ははじめからわかっているが、近づくに従って熟視すると、髪はうしろへ下げ髪に、その上へ鉄輪《かなわ》を立てて、三本の蝋燭《ろうそく》が燃えている。足は跣足《はだし》です。それから首に鏡のようなものをかけている。
右の女が、ちょこちょこと鼓楼の下から小走りして、玄関の松の下まで来ましたが、思い余って、いきなり、わが子を入れた籠に飛びつくかと思うと、存外、冷静でありました。
その冷静ぶりは、むしろ、捨てたわが子の籠を目的としないで、そそり立つ松の大木の幹へでも抱きついてみたいというような気分で走りかかったことも、不思議の一つでしたが、籠の直ぐ一歩前、ちょうど松の大木の幹の下へ来てみると、そこで、いきなりわが子へ飛びつきもしないし、頬ずりもしないで、何か事の不思議そうに、突立ったままで、ずっと闇を透かして、この幼な児の人生の笑いを見つめていました。
こんな緩慢な挙動は、断じて人の親の挙動ではない。
第三者が偶然に、何か驚訝《きょうが》すべき事件を路傍に認めて、ふと足を止めた挙動に過ぎない。わざと芝居をして見せるのでない限り、母たるものがこんな思わせぶりを、この際わが子に向って為すべきはずがない。
そんなことには頓着なく、この子はほほ笑みをつづけておりました。
他目《よそめ》には、母親でなければならぬと想像されるところの女の人を傍らに置きながら、母よと呼ぶのでもなければ、乳をとせがむのでもない。相変らず天空の爛々《らんらん》たる星を仰いで、ひとり笑いに笑っている。
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