前に手早く差し込んでしまったのか、或いはまだ差していないのか、その辺がわからないうちに、右の人物は鉄扇様のものを手に持って、太鼻緒の下駄を足に突っかけて、河原の石をガランゴロンと踏み分け、両肩を聳《そび》やかして、さっさと、逃げ隠れもわるびれもせずに、こちらへ向って闊歩《かっぽ》して来るのであります。
白雲は、もはやこの男の人品骨柄から、衣類持ちものまでも見るのに遠眼鏡を要しません。頭こそ元服はしているが、年齢はまだ若い――おそらく十七八歳を出でまいと見られる若者でした。袴を穿き、鉄扇を持っている。長い刀、それは最初遠目に見たところと更に違いはないが、問題の脇差はついに見当らないということに結着しました。
つまりこの男の腰には、長い刀の一本だけ横たわっていて、そうして他の差添えというものは何もないことを知ってみると、どうも変則な武装だと思わずにはおられません。
脇差はどうしたのだ。
差し忘れたのか、本来差して来なかったのか、それとも、只今の乗切りで川の中へ取落しでもしたのか。
田山白雲がよけいな心配までしてやっている時分に、法螺《ほら》の貝の手勢が、真黒くなって早くも右の小兵《こひょう》の長刀の男を取囲んでしまいました。本来、小さい身体なのですから、雑然たる多勢に取囲まれては、忽《たちま》ち姿を呑まれてしまうのは是非もないことで、多勢の中に呑まれてしまうと、田山白雲としては、もはや遠眼鏡を以てしても、肉眼を以てしても、その男の姿を認めることはできなくなって、ただすさまじい喧々囂々《けんけんごうごう》だけを耳にするばかりです。
「あぎゃん、こぎゃん、てんこちない、たんぼらめ!」
「渡し場には渡し場の掟ちうもんがあるのを知らねますか?」
「そぎゃん川破りをお達し申せば、お関所破りと同罪ぎゃん!」
「棹《さお》を出し申すまで待たれん間じゃござんめえ、とっべつもない!」
「けそけそしてござらあ。いってえ、こんたあ、どこからござって、どっちゃ行く!」
「わや、わや、わや」
思いきって土音雑音を発揮するらしいが、別段、手出しには及ばないようです。
五
取巻く土地の人々が、思い切って土音を発揮する上に、取巻かれている当の男が、またその男特有の地方音をもってあしらっているのだから、白雲の耳に、そのまま移すことができないのは道理だが、しかし最初から
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