、薬は利《き》いたか」
「まだ何ともない、痛みの至る程度から言えば、お前のとは比較になるまい、あ、それにしても胸が変だ、腹が痛い」
「しっかりしろ」
「仏頂寺、痛いだろう」
「そりゃ、痛い、腹も身のうちと言うからな」
「我慢しておれも……」
この時分に、丸山の腹に硫酸が浸漸《しんぜん》をはじめたらしく、
「苦しい、思ったより苦しい!」
と叫びましたが、
「がんばれ!」
と仏頂寺が声をかけると、丸山は、
「ああ、この苦しみは別だ、まるで五臓六腑が焼け出したようだ、噴火山から熔岩が流れ出して村里をのたうち廻るように、腹の中を熱いものが引掻《ひっか》き廻す、仏頂寺、おまえのも楽じゃあるまいが……」
「楽じゃない――」
「俺のは苦しい、同じことなら、腹を切るんだった、こんなに……毛唐《けとう》の薬がこんなに利くとは思わなかった、苦しい!」
「愚痴を言うな」
「たまらない――誰か早く引導を渡してくれ」
「我慢しろ」
「うむ――」
丸山勇仙は、しっかりと大地につかまって堪《こら》えている。仏頂寺は全力をこめてキリキリと刀を腹の中へできるだけ強く突きこんで引掻き廻してえぐりながら、苦しがっている。でも、丸山勇仙に同情するの余裕がいくらか残っていると見えて、
「丸山、苦しまぎれに、さっきのあの受け渡しをもう一ぺん繰返せ、それが引導だ」
「ううむ、ううむ」
「いいか、斎藤篤信斎は……剣術をつかうために生きている」
「うーむ、高杉晋作は……尊王攘夷の……ために生きている」
「徳川慶喜は……」
「うーむ」
「小栗上野は……」
「うーむ」
「勝麟は……」
「うーむ」
「岩倉は……」
「うーむ」
「土佐と、肥前は……」
「うーむ」
「会津、桑名は……」
「うーむ」
「そうして、仏頂寺弥助と……丸山勇仙は……何のために生きているのだ」
「うーむ」
「うーむ、何のために……」
「うーむ、生きている……」
「うーむ、松茸の土瓶蒸を……」
「うーむ、食うために……」
「うーむ、うーむ」
ここで、ついに二人の舌が硬《こわ》ばって、呂律《ろれつ》が廻らなくなり、丸山勇仙はもう受け渡しどころではなく、そこらをのたうち廻って苦しみ出したが、仏頂寺の気はなお確かで、存分に腹をえぐって上へハネ、やがて刀を返して咽喉《のど》へ持って行って、一気に咽喉笛を掻切ってしまったから、万事はおしまいです。
ほとんど同時に、丸山勇仙も動かなくなりました。
十七
それを遠く、物蔭にうかがっていた女が言いました、
「ごらんなさい、いい気じゃありませんか、男同士ふたり水入らずで、峠の上で飲めよ唄えと、さんざん騒いだ揚句、とうとういい心持で寝込んでしまいましたよ」
兵馬もまた、そうだと信じている。このかなり隔たった距離の点からうかがっていると、二人の挙動は、万事いい気持ずくめとしか見えなかったものです。
紅葉を焚いて、酒と松茸をあたためて食べながら、出まかせの太平楽を並べて、それが相当に並べつくされた後、ところを嫌わず、いい心持で寝そべってしまったのだと見るよりほかには見ようがなかったのです。何故に生きねばならないかの疑問と、これより先へは一寸も歩けない倦怠が二人を悩まして、その間に受け渡された、憂鬱きわまる問答の声は、決してここまで届かなかったものですから、兵馬も、
「暢気《のんき》千万な奴等だ――ああなると、全く箸《はし》にも棒にもかからぬ」
「でも、可愛らしいところがあるじゃないの、人間はアクどいけれども、ああして行きあたりばったりに酔っては寝、寝ては起き、起きては旅――という気持だけは羨《うらや》ましいわ」
「あれだけの気分で、彼等は生きているのだ」
「わたしたちだって、あの気分で生きて行きさえすれば文句はございませんね、旅から旅を気任せに、酔っぱらって寝転んだところが宿で、起きてまた歩きだすところが旅――ああして一生が送れれば、あれもまたいいじゃありませんか」
「御当人たちはよろしいとしても、差当り、こっちの動きがとれないには困る」
「困りゃしないわよ、向うが向うなら、こっちもこっちよ、根《こん》くらべをしようじゃありませんか」
「ばかなことを――」
「あの人たちが頑張《がんば》り通すまで、こっちもここを動かないことにしてはどう、ねえ、宇津木さん」
「そういう緩慢なことはしておられない――とにかく、彼等が眠りに落ちたを幸い、この間に摺《す》り抜けることにでもせんと……」
「まあ、あなたは、どうしてそんなにせっかち[#「せっかち」に傍点]なのでしょう、少しはあの人たちにあやかりなさいよ」
と言って、兵馬の胸にしがみついて怖れをなしていた女が、兵馬の首根っこにぶらさがって、木の実をとりたがる里の子供らが、木の枝をたわわにしてぶらさがりたがるようにしてぶ
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