のばかりではなく、日本人でもずいぶん鼻持ちのならぬ奴が現われるかも知れませんが、そこは見学のことでございますから御辛抱あそばせ。そうして着席いたしますとな、まずここへスップというやつが現われます、食事でございますよ、本邦で申しますとお吸物なんでげすな、そのお吸物が現われました時、このお玉杓子の大ぶりなやつで、こういうふうに召上ります、お玉杓子の大ぶりなのを、こちらからこう向うの方へすく[#「すく」に傍点]うようにして、音をたてずに戴きますんでな」
金公が小さな声で洋食の食べ方を伝授している時、一方の扉があいて、ドヤドヤと異種異様な人間がこの室へ入り込んで来ました。本来、他人の食事をしている部屋へ、挨拶なしにどやどやと入り込むということが礼に欠けていると思うのに、ドヤドヤと入り込んだ奴は先客の神尾主従に一言のあいさつも無く、それぞれ椅子へ腰かけて、いい気ですまし込んでいる。
そこで神尾は、この食堂が自分一人をもてなすための食堂でなく、また自分一人で買い切ったものでないということをよく知りました。
そうなってみると、またそういう心持ともなり、同時にまた、ここへ入り込んだ者共の何者であるか、こういうところへわざわざ食事に来る奴の面《つら》を見てやりたいという気にもなって、改めて列座の者共を睥睨《へいげい》する意気組みで、次から次への面調べにかかると、全くこのいずれも、日本流の茶屋小屋では見られない風采と面《かお》ぶれとです。神尾は自分の三ツ目の面を曝《さら》すことの不快を全く忘れ去るほどの興味で、一座の奴を見渡しているのです。介添役には金助改め鐚助《びたすけ》がついている。
やがて、今度は支那服でない白い被《おお》いのついた筒っぽを着た数名の給仕が現われて、またまた白い中皿に湯気の立つやつを、いちいちその客の前に並べて廻りました。無論、主膳の前にもその一枚が並べられてある。
「これが西洋のお吸物、スップでげす」
びた公は小声で言って、自身まず匙《さじ》を取り上げて、主膳にもこうして召上れという暗示を試みたのです。
鐚公のするようにしてスップを吸い終った主膳は、そのまま手を束《つか》ねていると、給仕が来てその皿を持って行ってしまう。その隙《すき》にまた主膳は、一座の奴等を白い眼でじろりと一通り見渡しました。同席の自分とびた公以外の同席に七人の客がいるが、そのうちの四人が日本人で、二人が赤髯《あかひげ》で、他の一人は目玉の碧《あお》い女でした。そうして右の四人の日本人の中には、相当高級の士分らしいのもいれば、相当大商人のようなものもいる。果していかなる種類と階級に属し、何の目的あって、こんなところへ食事にやって来たのか、その辺の吟味は追々するとして、これでこの椅子が全部満員になったものと見ていると、ただ一つ自分の左の椅子だけがまだ空いていて、今スップのお吸物が済んでもまだ誰もやって来ない。その席、ここにも相当の据膳がしてある。それによって見ると、前約束が出来ていて、多少の遅刻することを見込んで椅子が買い切ってあるものらしい。誰が来やがるのか、あんな赤髯の臭い奴に来られた日にはたまるまいと、神尾は何か汚ならしいものにでも触れられるような気持がしたが、何もまあ見学だ、一通り見ておいてやる分には、かえって臭い奴に来られてみるのも一興かも知れないという気分になっているうちに、また次なる皿が運ばれました。その次の中は今度はお吸物ではない、何か肉をちぎって、こてこてと盛り上げたもので、あんかけのようになって湯気を立てている。
「これは、こうして小柄《こづか》で切って食べるのでげす」
鐚公が小声で説明して、仕方をして見せる通りに神尾がする。そこへ給仕が飲物を持って来て、鐚公と神尾の前の小さな盃《さかずき》についで行きました。
その肉をナイフで切って口へ運び、そのあいの手に飲物をちょっとやってみると酒だ。一種異様の刺戟がある。それを飲み且つ食いながら神尾は、白い眼で列席の奴等をまたおもむろに検討にとりかかる。
その時、自分の向う側にいた大商人らしいのが、傍らなる相当高級の士分らしいのに向って話しかけるのを聞きました。
七十二
大商人らしいのが、身分ありげな士分の者に向って話しかけたのは、まずここから江戸湾の上に見渡すところの、お台場のことから始まったようです。
あのお台場の建築を公然とは言わないが、冷嘲の語を以て話し合っていることはたしかです。今時、あんなものに、あんなに大金と労力とをかけて築造して、いったい何になるのだろうというようなこと、要するに水戸の老公の御機嫌に供えるためさ――といったような調子も出て来る。
この二人は、徳川幕末政府が、苦心惨憺した国防政策の一つとしての、品川砲台を冷笑するだけの見識
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