いただいて帰りました」
こう言って涙を流して若い番頭が申し述べるものですから、さすがのお内儀さんも、よもや偽《いつわ》りとは疑うことができませんでした。一つの罪を完成してみると、それからの狂言もうまくなるものと見えて、本来さほどの悪者ではなかった若い番頭も、もはや全く悪党としての度胸に仕上げを加えてしまったのです。そこで、お内儀さんをも涙ながらにあきらめしめました。
「そういうことで、どうも、いくら歎いても仕方がありません、お前が、わたしに成り代ってまで、そうして看病に手を尽してくれたのが仏へ何よりの供養と思います。何かほかに遺言はありませんでしたか」
とお内儀さんからたずねられて、若い番頭はもじもじ[#「もじもじ」に傍点]として、
「はい、御遺言のところも、ほぼ伺うだけは伺って参りましたが……」
と言って、なんとなく口ごもる物々しい態度を見て、お内儀さんがおしてたずねました、
「旦那の臨終におっしゃったことを残さず話して下さい、それが、わたしたちの利益になろうとも、不利益になろうともかまいません、旦那の臨終におっしゃったことはいちいち遺言として、善悪にかかわらず、わたしはそれに従って生きたいと存じます」
「それではお内儀さん、旦那様の御臨終の前におっしゃったことを、一切隠さず申し上げてしまいますから、お気にさわりましても御免くださいませ」
「何のわたしが気にさえることがあるものか――何かべつだんに遺言としての書附がなくても、信用しているお前の伝えることは、そのまま主人の言いつけとして、わたしはその遺言に従わなければなりません」
「では申し上げますが、旦那様が、いよいよいけないと御自分でもお気がつきなされた時に――私を枕もと近く呼び寄せなさって、これ新蔵、わたしはもうどうしてもいけない、旅でこうして果てるのは残念千万だけれども、天命いたし方がないによってあきらめるが、あきらめ兼ねるのは国もとにある妻子のことだ、あれもほかにたよる身寄りとてもなく、あったところで、うっかりと親類身よりに任せれば、かえって散々なことにされてしまってかわいそうだ、その妻子のことだけが心残りになって仕方がないと、おっしゃいました」
「それはそうおっしゃりそうなこと、やっぱり旦那も人情の人でした。全く旦那が心配なさる通り、わたしたちの身の上というものは、これからどうなることでしょう。で、それからお前は何と返事をしました」
「それからでございます、私も、何と御返事を申し上げてよろしいかわからないでおりますと、旦那様がわたくしを、もっと傍へ寄れとおっしゃって、それからでございます、お内儀さん、お気にかけられては私が困りますが……」
「何の気にかけるものか、お前の言うことは即ち主人の言うことと、さっきからあれほど言っているではありませんか」
「では申し上げてしまいますが、その時に旦那様が、わたしの耳へ口をつけるようにしておっしゃいましたのは、今いう通りの次第で、親類身寄りというも、あとを托するほどの心当りはないのだから、お前にひとつ、迷惑でも、一切わたしに成り代って、この後のあの家を見てもらいたい、身代も、商売も、引きついでもらえまいか、それについて、お前には気の毒だが、あのわしの女房も、子供こそ二人あるが、まだ老いたりという年ではなし、お前が……」
「まあ」
「お内儀さん、旦那様がそうおっしゃいました、お前、年に少し不足はあろうけれども、いっそあれと一緒になってくれないか、そうしてもらえば、家も、商売も、女房にも、みんな安心してあとへ残して、行くところへ行けるのだが、とこうおっしゃって、息をお引取りになりました」
「まあ……」
その時、お内儀さんは真赤になってしまいました。
もとよりこのお内儀さんは、出立間際に、若い番頭に向って、ああいうことを言ったけれども、なにも本心からこの男を好いて不義を働こうとしたわけではなく、主人の浮気おさえの目附役として、番頭を手なずけて置きたいという女心に出たものなのでしたが、事態がこう急転してみると、まるで演劇の廻り燈籠《どうろう》を見せられるように目がくらんでしまいました。
しかし、好きこのんで行うわけではないが、真に憎い奴というわけでもない、若い番頭からこう言われてみると、なるほど、それがまた主人の本心であったかも知れない、へたに親類身よりに荒されるよりは、気心も心得ているし、商売ものみこんでいる、この若い番頭のほかには、いよいよとなると頼みになる者はない――と主人も心づいたというのが無理にも聞えないし、自分にしても、そう思われないことはない。
そうして、お内儀さんは、とうとうこの若い番頭に許してしまいました。
許してしまってみると、自分より年下でもあるし、また働きもあるし、子供たちの面倒も見てくれるし、若い身
前へ
次へ
全110ページ中89ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング