ゃらぬ日とてございますまい、わたくしが、どうやらこの子を今日まで育て上げましたのも、亡き連合いの魂魄《こんぱく》が守護してくれましたそのおかげとばかり思っておりまする」
「そうおっしゃられると恐縮です、あなたはこうして、立派にすんなりとお子さんを育て上げて、立身出世を亡き連合いとしてのこのお子さんの父君に誓願しておられるが、拙者ときた日には、父の名こそ同じ弾正ではあるが……子の成れの果てはお話になりません」
「いいえ、さようなことはございません。しかし親となってみますと、頑是《がんぜ》ない時は頑是ない時のように、よく行けばよいように、悪くそれればそのように、もしまた立身出世いたしましたからとて、それで心の静まるわけのものではございません」
「では、何のために立身出世をさせるのですか」
「ホ、ホ、ホ、ホ」
と、竜之助から問いつめられた賢母の人は、愛想笑いをして、
「そういうむずかしいことをお尋ねになっては困ります、今のわたくしは、ただ子供に立身出世をさせたい一心だけでございまして、立身すればするように、苦労が増すものか、減るものか、そのことなんぞは実は考えていないのでございます。それはそうと、もうかなり時がうつりました、それではそろそろ長浜へ向って出かけることと致しましょう」
と言って、木の枝に程よく吊《つる》した提灯《ちょうちん》を取下ろすべく、賢母が腰を上げて手をのばしました。
 賢母が提灯を手にとろうとすると、その後ろで不意に、
「ホ、ホ、ホ、ホ」
と笑う声がしました。
 三人が言い合わせたようにそちらをみやると、水門の水口《みなくち》のところに、腰打ちかけてこちらを向いている一人の白い姿があるのです。
 最初は絵に見る関寺小町《せきでらこまち》とか、卒塔婆小町《そとばこまち》とかいうものではないかと怪しまれたほど、その形がよく画面に見えるそれと似通っておりました。
 無論、女です。白い着物の裾を長く曳《ひ》いて、白い帯に、白い頭巾で、目ばかりを出して、不意に「ホ、ホ、ホ、ホ」と笑いかけたものですが、その笑い声がいかにもやわらかで、そうして美しさと、若さを含んでおりました。
 卒塔婆小町? と疑ったのは、その姿を見た瞬間の印象だけでして、その声を聞くと、どうして、ずっと若い、美しい水々しさを持っていることに於て、やはりその頭巾の中の主も、声と同じような若さと、美しさと、それから和《やわ》らかさを持っている人であることは疑うまでもないほどです。
「どなたでございますか」
 こう不意を打たれても、賢母はあまり狼狽《ろうばい》しませんで、そうして物静かに、おとない返したものです。
「御免あそばせ、失礼とは存じつつも、あなた様方のお話を、途中でおさまたげするのも何かと思いまして、こちらで伺っておりました」
「少しも存じ上げませんでしたが、どこからお越しになりました」
「都からのぼって参りましたが、実はこちらがわたくしの故郷なのでございます」
「さようでいらっしゃいますか」
 ここで、両女の受け渡しがはじまりました。
 最初の婦人を、仮りに賢母と名づけ、後なる白衣の婦人を美人と呼びましょう。
「あなた様には、御子息様をお連れになって、尾張の中村からお越しあそばされましたそうな」
と美人が押返してたずねると、賢母が直《ただ》ちに答えました。
「はい、お聞きの通りでございます」
「そうして、あの長浜に御親類のお方が、たいそう出世をあそばしておいでなさいますそうで、それへ御子息をたのみにおいでの由を承りましたが」
「はい、仰せの通りでございます」
「つきましては、甚《はなは》だ不躾《ぶしつけ》でございますが、わたくしの考えだけを申し上げますと、それはおやめになった方がおためかと考えますのでございますが……」
「何と仰せになりましたか」
「はい、御子息様を御親類の方へお連れあそばして出世をおさせ申すことは、おやめになった方がおよろしくはございませんかと、わたくしはさように申し上げたのでございます」
「では、わたくしたちが長浜へ参るのは、悪いとの仰せでございますか」
「その通りでございます、御子息様をお連戻しになって、尾張の中村へお帰りになるのが、あなた様方のおためかと存じまして」
「それはいったい、どういうわけでございましょう」
「まあ、お聞きあそばせ」
 水門に腰かけている美人は、提灯《ちょうちん》を提げていささか立ち煩《わずら》っている賢母に向って、あらためて物語をはじめました、
「わたくしは、出世をすることが必ずしも人の幸福《しあわせ》ではないと覚えておりまする、幸福でないのみならず、出世をするのは、人間の最も大きな不幸と災禍《わざわい》の門を入るものと覚らずにはおられないのでございます、それ故に、あなた様方の、只今のお話を、ここでお
前へ 次へ
全110ページ中57ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング