、長浜におりまして、わたくしの従妹《いとこ》の連合いになっておりますので」
「木下藤吉郎」
聞いたような名だ! と、黒い姿が思わず小首を傾けました。
「はい、その従妹の連合いが、今たいそう出世を致しまして、江州の長浜で五万貫の領分を持つようになりました」
「冗談《じょうだん》じゃない」
と、黒い姿もさすがに桁《けた》の違った母の人の言い分に驚かされ、呆《あき》れさせられたように投げ出して言うと、賢母は、
「いいえ、冗談ではございません、昨晩からの陣触れも、あの篝《かが》りも、みんなそのわたしのいとこ[#「いとこ」に傍点]の連合いがさせている業なのでござります」
「途方も無い。だが、もう一ぺん、その人の名を言ってみて下さい」
「木下藤吉郎と申します」
「は、は、は、何を言われる、木下藤吉郎、それは太閤秀吉の前名ではござらぬか」
「別に、こちらの方では、太閤と申しましたか、秀吉と申しましたか、そのことはわたくしたちはよく存じませぬが、わたくしの従妹の連合い木下藤吉郎がたいそう出世を致しまして、只今、あの江州長浜で五万貫の領分をいただいているのは確かなのでござります、そこへ、わたくしはこの子を連れて、尾張の中村から訪ねて参る途中なのでござります」
賢母らしい人は信じきって、こう言うのですから、義理にも冗談とは受取れないので、ばかばかしいと思いながら、覆面の黒い姿はそのままでもう一歩進んでみました。
「そんならそうとして、さて、あなた方は何の目的でそれをたずねておいでになる」
と、駄目を押すようにしてみると、
「左様でござります、その藤吉郎に、この子供の身を託したいと思いまして、これはわたくしのせがれでござりますが、ごらんくださいませ」
と言って、母なる人は後ろを振返り、踏み止まってその提灯を、殿《しんがり》にいる十二三の男の子の面《かお》に突き出しました。
そこで、この子の面目が照らし出され、その突きかざした提灯がくるりと廻ると、まず最も鮮かに浮き出したのは、提灯に描かれた蛇《じゃ》の目と桔梗《ききょう》の比翼に置かれた紋所でありました。
四十四
その提灯の光りに照らし出された十二三の少年は、臆するところのない沈勇の影を宿した面《かお》を向けて、しとやかに立っておりました。
それを見て、黒い姿は、何か神妙な気持にうたれたと見え、
「どうです、この辺で一休みして参ろうではござらぬか――あなた方は何か御由緒《ごゆいしょ》もありそうな人たち、お身の上を、ゆっくり承ってみたいものだ」
と、その辺の然《しか》るべき路傍に立ちよってみると、
「はい、まだ夜明けには間もございますから、ではひとつ、この辺で一休みさせていただいて、ゆっくりあれへ参ることに致しましょう。お前、そこに大きな石がある、それをこちらへお据え申しな」
と母から言いつけられると、沈勇な面影を備えた少年は、自分の身体に余るほどの大きさの路傍の巌石を、易々《やすやす》と転がし出して来て、黒い人のために席を設けました。
そうして、母子は程よいところの木の根方へ腰を下ろして、提灯は傍《かた》えの木の枝へ程よく吊り下げ、そうして心安げに話をするくつろぎになりました。
「この子は虎之助と申しまして、柄は大きくござりますが、これで当年十三歳なのでございます、今日まで故郷の尾張の中村で育てましたが、いつまでも草深いところに遊ばして置くのもどうかと思いまして、思い切ってこちらへ連れて参りまして、藤吉郎のところへ預けて、ものにしようと思いまして」
「お父さんはどうしました」
「この子の父と申しますのが、あなた、弾正右衛門兵衛と申しまして、つまり、わたくしの連合いなのでございますが、三十八歳の時に、これが三歳《みっつ》の年に歿してしまいました」
「それは、それは――」
「それから、こうして今日まで、後家の手一つで育て上げはいたしましたが、後家ッ子だからと人に笑われるのは残念でございますし、それに、田舎《いなか》に置きましては、武士の行儀作法をも覚えさせることはできませんから、思い切って連れて参りました。父の弾正さえ生きておりますれば、わたくしがこうして引廻さなくもよろしいのでございますが……」
「ははあ、そなたのお連合い、そのお子さんの父親も弾正と申されましたか。実は拙者の父も同じ名を名乗っておりました」
「さようでござりましたか、それは、どうやらお懐《なつ》かしいことでございます。なんにいたしましても、男の子は男親につけませんと、母親ばかりではどうしても躾《しつけ》が足りません、それにあなた、この子がそう申してはなんでござりますが、生れつき心が優しく、武勇の気が強いのでござりまして、親の慾目とお笑いになるかも知れませんが、わたくしとしては相当に見込みをつけたのでご
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