預かろう」
「嬉しい」
「では出立いたそう」
「どうしてあなた、そんなにお急《せ》きになるのよう、前に日限のある身ではなし、あとから追手のかかる旅でもないのに、もっと落着いていらっしゃいな。それにあなた、飛騨の高山も今が一生の見納めじゃなくって、二度と再び頼まれても、わたしはもう、こんな土地へ帰りゃしません、あなただって御同様でしょう。一生の思い出に、ここでひとつ、ゆっくりとお名残《なご》りを惜しもうではありませんか」
と言って、女はこし方の高山の方へと向き直りました。
しょうことなしに兵馬が佇《たたず》んでいると、女はどうしたのか、いよいよ浮き立ってきて、
「ねえ、宇津木さん、ここでわたしがお名残りに、飛騨の高山で覚えた芸づくしをお聞きに入れるわ――お相手があなたじゃ、その方は張合いがないけれど、わたしの心意気だけを聞いて頂戴よ。いいえ、あなたにお見せ申す心意気てわけじゃないことよ、これっぽっちの間ですけれども、高山には御厄介になっていたお礼心で、わたしここで、高山音頭を器量一杯にうたってみますわ、あなたはお相伴《しょうばん》に、おとなしく聞いていらっしゃいな」
女は高山の方へずっと向き直って、そうしてツツンテンテンと口三味線をはじめました。
「聞いていらっしゃい、古いところからお耳に入れてあげるから」
兵馬がいよいよもてあまして立っていると、女は練り上げた声で、
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宮の八兵衛は酒お好き
お酒三杯と嬶《かか》かえた
嬶かえた……
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その突拍子な調子を兵馬が呆《あき》れました。
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心やすやす安川を
向うに越ゆるは鍛冶屋橋
宮で角助、平湯で右衛門《えもん》さ
ドン、ドン、ドドロン、ドン
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兵馬は呆れ果てているけれど、女はいい心持に、また調子を替えて、
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おちゃえ、おちゃえ
おちゃのうちの梨の木で
蝉が鳴く、何と鳴く
つまこい、つまこいと三声なく
おちゃえ、おちゃえ
あねさの腰の巾着は
びろどかな
びろどでないが、熊の皮
おちゃえ、おちゃえ
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「それから今度は白川おけさ……」
と軽く手前口上をのべて、
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おけさよう
おけさ正直なら
そばにもねさしょ
おけさ猫の性で
そうれ爪たてた
おけさよう
おけさ踊る
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