り惜しくって、飛騨の高山まで逆戻りの危ねえ綱を渡るでもねえ、三百両が欲しけりゃ、どこかもう少し安全な方面へ当りをつけたって、つかねえ限りもあるめえものだが、あいつにあの手文庫のままのやつを持って来て見せてやりてえ――まあ、お前さん、本当に持って来て下すったねえ、何という凄《すご》い腕でしょう、わたしゃ、お前さんのその片腕にほんとうに惚《ほ》れちまったよ――なあんて、あいつを心から参らせてみるのも悪い気がしねえテ」
 百の野郎は、いや味たらしい思出し笑いをした上に、
「さてまた、福松の阿魔だがなア、あいつがまた、こちとらの面《かお》を見せるとただは帰《けえ》すめえがの――色男てやつは、どっちへ廻っても楽はできねえ」

         八十一

 こういった意気組みで、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百の野郎が、高山へ向けて自慢の迅足《はやあし》で飛んで行って、あの警戒の厳しい中を、首尾よく宮川通りの目的地まで、忍んで行ったには行ったけれども、御神燈の明りが入っていないことで、まず胆を冷し、叩いてみると、おとといあき家になっていたということで、ベソを掻《か》いてしまったのはいいザマです。
 尋常にお暇乞いをして北国の方へ出かけたということだから、夜逃げというわけでもあるまいが、あんな田舎芸妓《いなかげいしゃ》に出しぬかれたのはがんりき[#「がんりき」に傍点]生涯の不覚と、苦笑いがとまらないが、しかし、こんなけんのん[#「けんのん」に傍点]な場所がらに、寸時も足を留めていることはできないから、すぐその足で、がんりき[#「がんりき」に傍点]はまた飛んで帰りました。
 帰りの途中、がんりき[#「がんりき」に傍点]は、思い出しては、自分ながら腹も立たないほどばかばかしくって、お話にもなんにもならないと、やけ半分でむやみに歩いたが、それはそれでやむを得ないとして、さあ、三日目と約束したあのじだらくお蘭に、何と言って面《かお》を合わせたものか。
 どうも仕方がねえ、お代りを工面《くめん》して行って、それでどうやら御機嫌を取結んで、こっちの男を立てるまでだ。お代りといったところで、ちょっと大枚の三百両だ、そこいらにそうザラにはころがっていねえ、これはこそこそや巾着切りじゃあ間に合わねえ、相当の荒仕事をしなければならねえが、さてどうしたものだろう。
 がんりき[#「がんりき」に傍点
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