りゃならぬ、そこで事務の方は太平に任せて置けば心配はなし、お前さんは、ただ本家の方へ来て、すわっていてもらいさえすればよい」
これが洒落者《しゃれもの》ならば、なるほど、与八ならば据わりがいい――と交ぜっ返したくなるような頼みなのですが、頼む方も、頼まれる方も、最もしんみりしたものなのです。与八は一途《いちず》には引受けるとは言いませんでした。
「旦那様が、今、旅にお出かけになることが、いいことだか、悪いことだか――わしらが留守を頼まれる方は、なんでもないことなんでございますが」
と言いました。
「まあ、誰彼に言い触らすと、留める者も出て来るし、また有野の伊太夫が上方見物に出かけるなんぞと近辺に取沙汰が起ると、事が大きくなって面倒だし、それに今時は物騒な世の中だから、道中、どんな悪者や、胡麻《ごま》の蠅が聞きつけて、附き纏《まと》わないとも限らないから、わしは隠れて行くのだ、これから一人か二人、ともを選んで誰にも気取《けど》られないようにして出かける」
「旦那様が、そこまで御決心をなすったんじゃあ、わしらがお留め申したって、おとどまりなさるはずもござんすめえから、お留守のところはお引受け致しました。では、御無事に行っていらっしゃいまし」
与八も、こう答えるよりほかには、頓《とみ》に返答のしようがなかったのです。自分が引留める権能もなし、引留めたからとて引留められるはずもなし、女子供とかいう人ならば、一応忠告も試みようというものだが、堂々たる大家の主人の行動に、自分なんぞが口出しをすべき抜かりのあるはずはないのだから、やはり、言われた通りに従順に受け、頼まれた通りに頼まれるのが一番だと、与八の頭にうつりました。それに、突然とは言いながら、持余し者ではあるが一粒種のお嬢様というものが、あちらへ出かけていらっしゃるのだから、親としてそれをみとりがてら、旅をなさろうというのは、お奨《すす》め申せばとて拒《こば》む理由はない、と信じたからであります。
与八の快き承諾ぶりで、伊太夫は最も安心して本家へ引きとると共に、内密に、迅速に、旅の用意をととのえてしまいました。今の伊太夫の家では、この旅を、無用なり、危険なりとして諫諍《かんそう》するほどのものはありません。よし、あったとしたところで、与八と同様の考えで、むしろお奨め申せばとて拒む理由はないのですから、ただこの上は、主
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