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七十六
ああして、与八の私塾はようやく盛んになって行きます。
塾長たる与八は、自家の彫刻もやり、子弟の教育もやり、医術をも施したが、今度は偶像としてあがめらるるに立至りました。
与八の私塾には、塾長先生の講話のほかに、近村の古老を迎えての課外講話がありました。近村の古老篤行家を迎えて、次第次第に殖えてゆく子供たちのために、無邪気なる古伝説や、或いは実験の物語などをしてもらって、衆を教育すると共に、自分も教えられるところが多くありました。無雑作な昔話にしても、土地に居つきの人そのままから、土地の音声を以て話してもらうと、古朴の味わい津々《しんしん》たるものがあって、人をよろこばせること多大なものがあるのです。
今日の課外講師というのは、一色村の土橋くらさんというお婆さんでありました。この春、七十七のお祝いをしたという達者なお婆さんに、お孫さんの里木さんというがついて来て、与八さんの塾の子供たちに昔話をしてくれました。その話は――
昔、相吾《さまご》の与次郎という法外鉄砲をブツことの上手なかりうど[#「かりうど」に傍点]があった。
その近所に大猿が現われ、畑を荒したり、鶏をさらったり、ひどいワルサをして困った。
それから村中総出で、近辺の山の中を残らず狩り出したが、猿のさ[#「さ」に傍点]の字も見えず、ただ山奥でチラリと見たという者は二三人あったが、その誰も彼も、その猿の手は真白だったと言うので、いつとはなしにその猿を「手白猿《てじろざる》」と呼ぶようになった。
手白猿のワルサは日に増し劇《はげ》しくなって行くばかりなので、領主の殿様も大へん腹を立て、
「あれしきのものが撃ち取れぬとあっては俺の恥だ、ぜひとも捕まえて来《こ》う」
と、家来を呼んで厳しく言いつけた。
家来たちは困り果てて、いろいろの評議の末、御領内を方々探したところ、与次郎の話を聞いて、
「これこれの法外上手な狩人《かりうど》があるから、猿はこれに撃たしたらようございましょう」
と殿様に申し上げた。すると殿様も、
「それじゃあ早速、その者を呼び出せ」
ということで、与次郎は殿様の前へ呼ばれた。殿様は、
「これ与次郎、手白猿はどうでも貴公が撃ち取ってくりょ、そうしれば褒美《ほうび》はなにほどでもやる」
と言った。与次郎は、
「けんど殿様、あんないの大猿は、とてもわ
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