ませんね」
「それは、そうとしましても、あなたはまだ、天子の都を御存じはないでしょう」
「京都ですか」
「京都と限ったわけはございません、帝王の都の風流をあなたは、まだ御存じがないようです、どうです、私と一緒に長安までおいでになりませんか」
「長安とは――」
「唐の都なのです、そこへ、あなたをひとつ御案内をしてみたい、そうして、帝王の都の風流というものが、あなたの反抗心といったようなものを、どんなふうに刺戟《しげき》するか、それをわたしは拝見したいのです」
「では、連れて行って下さい」
お銀様は、一も二もなくこの唐代の美少年の誘惑に乗ってしまいました。
七十
同じころおい、江戸の築地の異人館のホテルの食堂に、卓《テーブル》を前にして、椅子の上にふんぞり返っているところの神尾主膳を見ました。
床をモザイク式に張った広間の向うの洋風のダムベル式のバルコンを通して、芝浦一帯が見える。それを、わざと背にして神尾主膳は椅子に腰かけて、ふんぞり返っている。大テーブルには洋式の器具調度が連ねてある。本来一卓子に八人|乃至《ないし》十人も会食するようになっているのを、ここでは主膳が食いおわったわけではあるまいが、十人前の椅子のうち八つは空明きになって、その一つに神尾がふんぞり返っていると、それと向い合って、少し下手《しもて》に、下手といっても床の間があるわけではないが、向って左の方に六尺もある大きな四角なガラス鏡が据えてある、そこのところから二三枚下の方の椅子に腰を下ろして追従笑いをしているところのものがある。それは、おなじみの金公という野だいこ兼|千三屋《せんみつや》の男である。そのほかには人がないから――
海の方は、ずっと黄昏《たそがれ》の色が捨て難い風光を見せているけれども、神尾はそちらに面《かお》を向けて、新月がどうのこうのと気づかいをするでもなく、そうかといって、室内にはもはや高くランプが光り出して、その光を受けた六尺大の四角なガラス鏡が、まばゆく光り出したけれども、主膳はそれをのぞいて見るでもなく、むしろ、その反射をも避けるもののように、鏡面に自分のうつることを厭《いと》うかのように、避けて座席を構えている調子がよくわかるのです。
しかし、この男、只今は、乱に到るほど酔ってはいない。酒気は充分に見えるけれども、乱に及ばない程度で食い留めて
前へ
次へ
全220ページ中184ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング