た。
 ああこれは桂の花――と、お銀様の心がいよいよときめいて、その木の下に近づいて行くと、その幹の下に、木ぶり、花ぶりにふさわしいところの人が一人|彳《たたず》んでいました。
「ああ、新月、何とよい月ではありませんか」
 花の木の下に彳《たたず》んでいた、木ぶりにふさわしい人が、先方からお銀様に呼びかけたのであります。
「よい月でございますね」
とお銀様が受けこたえつつ、その人を見ますと、木ぶりには、しっくり合っているけれども、服装は全く見慣れない人でした。最初は奈良朝のそれと思って見ましたけれども、冠もちがえば、色彩の感じもちがう、これは支那の唐代の服装だと見てとってしまいました。それはまさしく、支那の唐代の風流貴公子といった、仇英《きゅうえい》の絵なんぞによくある瀟洒《しょうしゃ》たる美少年なのでありましたが、
「あなたは、この新月がお好きだそうでございますね、さきほど『長安古意』の、繊々《せんせん》たる初月、鴉黄《あおう》に上る……を口ずさんでおいでのを承りましたよ」
「そうでしたか、よくまあ」
 お銀様は、この唐代の美少年の面《かお》を見直そうとしました。同時に、今宵はまたよくも、人の気を見る相手にばかり出くわすことだ。さいぜんの穴掘りも、こちらが何とも言わない先に、こちらの意のあるところを見抜いたように行動したが、今のこの美少年もまた同じような妖言を言う。なるほどちょっと先刻、新月の空を見て、胸の中に「繊々たる初月、鴉黄に上る」という一句を無意識に思い浮べて、その昔、疑問を晴らすべく書庫を漁《あさ》って、解決つけたことの記憶を呼び起したには起したが、なにもその句をひそかに口ずさんだわけでもなく、声高く吟じ出でたでもないのに、この美少年に、こんな小賢《こざか》しい言い方をされると、自分の腹の中まで探られるような気がして、小癪《こしゃく》にさわらないでもない。しかし、たった今の陰惨な人生の終焉地《しゅうえんち》から、思い出の決して快いものでない昔馴染《むかしなじみ》に送られて、罪と罰とのかたまりを見せつけられるような道づれよりは、ここに華やかな唐代の貴公子の誘惑を蒙《こうむ》ることが、さんざめかしいというような気分にもなりました。
 今は昔の初恋の人でないお銀様は、幸内の思い出なんぞにそう深い追懐を払ってやるがものはないといったふうに、かえってこの異国の風流
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