取扱おうとして、
「あ、ツ、ツ、ツ」
と言いました。たいしたことではないのです。鉄瓶のつるが少し焼け過ぎているのを、薬缶《やかん》の方は扱いつけているけれども、鉄瓶の方は、あまり扱いつけていなかったものですから、少々熱い思いをしただけで、また神妙に取り直し、それを流し元へ持って行って道庵が手ずから洗面にとりかかりました。

         五十

 その翌日、長浜の町は水を打ったように静かでありました。
 その前の日あたりの人民の動揺の低気圧は消散してしまったか、そうでなければあのまま凍りついてしまったようです。昨晩、篝《かがり》を焚《た》いたには相違ないのですが、今朝になって見ると、それが滞りなく炭の屑に化してしまっていただけのもので、その篝火の下で、なんら異状のものの出没が照し出された形跡はありませんでした。
 少し今朝、調子が変った点がありといえば、それは、いつも早起きの町民が、少々眼の醒《さ》め方が遅いかとも思われるくらいでしたが、その時分、ひょっこりと八幡町の町の辻へ姿を現わしたのは、弁信法師に相違ありません。
「ええ少々、物を承りとうございますが、りんこ[#「りんこ」に傍点]の渡し場まで参りますには、どちらへ参りましたらよろしうございましょうか、これを真直ぐに参りましてさしつかえございますまいか、或いは右に致した方が順路でございましょうか、それとも左――」
 こう言って、杖を町の辻の真中に立てましたが、誰も答えるものはありません。
 それは前いう通り、時刻としてはそんなに早過ぎるというわけではないのですが、町民が今朝に限って眼のさめることが遅いのですから、自然、戸を開くことも遅れて、折から通り合わせる人もなければ、店の中で認めて挨拶をしてくれる人もないという状態なのです。
「まだ、どなたもお目ざめになりませぬな、今朝は別して皆様お静かでいらっしゃいますな、では、ともかくわたくしはこの通を真直ぐにまいってみることにいたしましょう、そう致しますると、いずれは湖の岸までは出られるように思われてなりません、りんこ[#「りんこ」に傍点]の渡しと申しますのも、つまり、その湖の岸のいずれかにあるものに相違ございませんから、何はしかれ、湖岸へ向って進んでみまして、それからのことといたしましょう」
 誰も挨拶を返すものがなくとも、この小坊主は、喋《しゃべ》ることにかけて
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