も右のさむらいを先頭にして、この群衆の姿は全部村の中に隠れてしまいました。
 そこで、川原の中に止まる者は、はや宇治山田の米友と、両替の駄賃馬ばかり――それも、いつまでこうしていなければならぬはずのものではない、ともかく、市《いち》が栄えてみると、自分たちは、自分たちとしての引込みをつけなければならない。
 かくて、米友は、おもむろに馬を曳《ひ》いて、川原の中から、こちらの堤の上へのぼって、仮橋のある柳の大木のあるところまでやって来たのであります。が、そこで米友が、まず目についたのは、その柳の木の下に一つの立札があって、これに筆太く記された字面《じづら》を読んでみると、
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「姉川古戦場」
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 ははあ、なるほど、この川が昔の合戦で有名な姉川か。
 更にその立札に曰《いわ》く、
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「元亀元年織田右府公浅井朝倉退治の時神祖御着陣の処」
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 ははあ、そうか、太閤記の講釈で聞いているところだ。さすがの織田信長も、この時の戦《いくさ》は難儀だったのだ、徳川家康の加勢で敗勢を転じて大勝利を得たということは知っている。朝倉の家来|真柄《まがら》十郎左衛門が、途方もない大太刀を振り廻したなんどという戦場がここだ。
 米友がこの立札によって、自分の歴史的知識を呼び起し、その心持でまた川原を見直すと、どうもなんだか、今まで両岸に騒いでいた甲の村が織田徳川で、乙の村が浅井朝倉ででもあったような感じがする。ただ山川として見るのと、歴史的知識を加えて見るのとでは、米友としても何かしら観念が一変するらしい。
 だが、自分としてはわざわざ古戦場見物に来たのではない、胆吹山《いぶきやま》の京極御殿へ帰らなければならないのだ。これから胆吹へ行くには、なにも必ずしもさいぜんのところまで引返すがものはあるまい、引返してみたところで、また悪気流の中へ飛び戻るようなものだから、この橋でこの川を渡ってつっきって行きさえすれば、胆吹へ出られるだろう。そこで米友はもう一応、馬のつけ荷を改めて、腹帯、草鞋《わらじ》を締めくくり、それにしても誰かに道案内を聞きてえものだと思案して立つことしばし、その背後からポカポカとのどかな音を立てて、御同様駄馬が数頭やって来るようです。
 よし、あいつに聞いてやろう――果して、ポカポカとやって
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