で道庵を取逃がした以上は、第二の作戦に彼等が窮してしまいました。安直が悲鳴に類する叫びをあげて、江戸ッ子、江戸ッ子と続けざまに叫んだのは、もうこの上は毒を以て毒を制するの手段、つまり、江戸ッ子を以て江戸ッ子を抑えるの手段に出でるほかには詮方《せんかた》無しとあきらめたものでしょう。
 ところが――この一座に江戸ッ子が一人もいない、一座が荒寥《こうりょう》として、悲哀を感じたのはこの時のことでありました。
 ところへ、どうでしょう、にわかに表の方に人のおとずれる物音あって、
「親分――兄い、変なところでお目にかかりやすが、まっぴら御免くだんせえ」
と、また一種変ったなまりの声が聞えて、襖が左右へあけられたと見ると、そこへ現われたのは、江戸相撲で三段目まではとり上げた松風という相撲上りでありました。

         三十八

「おお、松風、いいところへ」
「どうして、ここがわかったエ」
「いや、道中、ちっと聞き込んだものでごんすから、多分、丁馬親分や、安直兄いもこちらでごんしょうと、わざわざたずねて来やんした」
「よく来てくれた、一人か」
「ほかに、連れが一人ごんす」
「じゃ、こっちへ通しな」
「連れて来てようごんすか」
「遠慮は要らねえ、友達かエ」
「いや、わっしの川柳の師匠でごんす」
「おや、川柳の師匠、てめえ洒落《しゃれ》たものを連れて歩いてやがるんだな」
「師匠は江戸ッ子でごんす」
「なに、江戸ッ子!」
「およそ大名旗本の奥向より川柳、雑俳、岡場所、地獄、極楽、夜鷹、折助の故事来歴、わしが師匠の知らねえことはねえという、江戸一の通人でごんす」
「そいつぁ、耳寄りだ」
「天から降ったか、地から湧いたか」
「丁馬親分――安直兄い、およろこびなせえ」
「何はともあれ、その江戸ッ子の大通先生を、片時《へんじ》も早くこの場へ……」
「合点《がってん》でごんす」
 暫くあって、ひょろひょろとこの場へ連れて来られた一人の通人がありました。見受けるところ年の頃は道庵とほぼ近いし、気のせいか背恰好《せいかっこう》もあれに似たところがある。それを見ると木口親分もグッと気を入れたが、安直が思わず膝を進ませ、
「あんたはん、ほんまに江戸ッ子でおまっしゃろ」
 まかり出た通人がグッと反身《そりみ》になって、
「わっしゃあ、よた村とんび[#「よた村とんび」に傍点]という江戸ッ子でげす、
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