立退いて、乞食同様になって東海道を下って来た間、どのくらい自ら銭の無い旅の苦しみを味わわせられ、また一方、どのくらい銭の有り余る旅客の贅沢《ぜいたく》ぶりを見せつけられたか知れなかったのですが――この男は銭の有難味を知りながら、ついに銭の誘惑には負けたことがありませんでした。
 米友は今、痛切にその事の記憶をよみがえらされたのですが、そんな思い出話をスラスラと、或いはベラベラと話し出す男ではありません。何とも名状し難い、こし方《かた》の道の思い出を、ガッチリと歯を喰いしばって縛りつけようと試みていたのですが、その事の想像の以外は、どうしてもお君のことにうつらないというはずはありません。
「あっ! いやだな」
 米友が、思わずこう言ってうめいたのが、お雪ちゃんを少し驚かせました。
「どうしたのです、米友さん」
「どうもしやしねえが……」
と言いながら、米友がややあわてて、また事改まったように銭勘定にとりかかると、今度は不意に程近いところで、バサバサと聞き慣れぬ物音が起ったので、かえって米友が驚かされました。
「何だい、ありゃ」
と言っているところへ、続いて同じように、バサバサの音が前よりはちょっと手強く響きましたので、米友が数えかけた銭を置いて、音のした方を見込みながら、その手は我知らず、炉辺に置いた杖槍の方へのびていると、お雪ちゃんがかえって落着いて、
「米友さん、吃驚《びっくり》しなくてもいいわ、あれは鷲《わし》の子なのよ」
「え? 誰の子なんだって?」
「鷲の子なんですよ、ほら、鷲といって、鳥のうちでいちばん大きくて、いちばん強い鳥、あの鳥の子供がいるんですよ」
「へえ……鷲の子がかい、どうして、どこに」
「わたしが飼っているんですから、心配しなくってもようござんすよ」
「どうして、お前、鷲の子なんぞを飼いだしたんだえ」
「どうしてたって、それにはわけがあるのよ、お銀様が村の人から買ったその鷲の子を、わたしが預って世話をしています、それが今はばたきをしたところなんです」
と言っているうちに、たしかに納戸《なんど》の方にいるその鷲の子なるものが、またも続けざまに二度三度はばたきをしました。

         二十二

 米友としては、お雪ちゃんの説明で一応|納得《なっとく》したけれども、まだ心残りはあって、鷲の子の存在はそれでいいとしても、今まで静かにしていた鷲
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