雪ちゃんの記憶が、お銀様の方へ甦《よみがえ》って来ました。
「お嬢様、あなたが先生を、こんな牢の中へお入れ申してしまったのですか」
「でも、仕方がありませんもの」
「仕方がないとおっしゃるのは?」
「胆吹の山の大蛇《おろち》は、こうでもして封じて置かなければ、世間がたまりません」
「まあ、残酷な」
お雪ちゃんが、一切の恐怖を忘れてムキになりましたが、問題の当人はいっこう平気で、
「まあ、いいさ、こうして窮命させられているのはやむを得ない自業自得というものだ。でも、二人で、よく見舞に来てくれました、ゆっくり昔話でもしようではないか」
懸崖絶壁に腰をかけながら、涼み台に出て世間話でも持ちかけるような気分で、いやになれなれしいところへ、お銀様がまた妙に砕けたしなをして、
「どうです、悪女大姉のことは。悪女大姉に未練はございませんか」
「は、は、もう、何とも思っちゃいないね」
「お絹さんはどうです」
「は、は、は」
「山の娘のお徳さんとやらの、こってりした情味は忘れられますまいね」
「は、は、は」
「高尾山|蛇滝《じゃたき》で馴染《なじ》んだお若さんというのはどうです」
「は、は、は」
「伊勢の国の鈴鹿峠の下の関の宿《しゅく》から、お安くない御縁を結んだ、あのお豊さんとやらの心意気だけは、あなただって恩に着ないわけにはゆきますまい」
「は、は、は」
「あなたは、人妻を犯しました、人の後家さんを取りました、婬婦を弄《もてあそ》ぶこともしましたし、処女と戯れることもしましたねえ、わたしの知っているだけでも……そのうち、誰がいちばんお気に召しましたかねえ」
「は、は、は」
「甲州の八幡村の小泉の家で、わたしに逆綴《ぎゃくとじ》の帳面の初筆《しょふで》をつけさせました、あの時の水車小屋の娘もかわいそうでしたね」
「は、は、は」
「その帳面はあれからどうなりました」
「は、は、は」
「水に流されてしまってそれっきりでしたか。帳面は水に流されても、あなたの悪い行いは流れてしまいは致しますまい」
「は、は、は」
「あれから後、何人の人を殺しましたか」
「は、は、は」
「染井の化物屋敷の時のことをお忘れなさりはしますまいね、弁信さんとわたしと三人で、あの、うんきの中に、土蔵の二階で合奏をしたことがありましたねえ」
「は、は、は」
「白骨の温泉こそお楽しみでしたねえ、誰も知らない天地の間で、こんな憎らしい小娘と一緒に……」
「は、は、は」
「あなたは、この小娘を愛していたのですか、愛してはいなかったのですか」
「は、は、は」
「この雪という小娘も、面《かお》に似合わない大胆者でしたね、姉さんの男を横取りしてしまって、そうして……」
「あら――」
こんどはお雪ちゃんが、たまりかねて叫びました。
「は、は、は」
そのあとで、竜之助の響。お銀様はお雪ちゃんに取合わずに、竜之助の方に向いてつづけました。
「白《しら》を切っているけれども、わたしはもう疾《と》うに睨《にら》んでいますよ、二人の仲は、あの月見寺の一間で刀を拭っている時から出来ていたんですとも……そうして、このお雪ちゃんという小娘を妊娠させてしまったものだから、土地にいたたまれないで、湯治を言い立てて白骨温泉なんぞと洒落《しゃれ》こんだのが憎らしい」
「あら、まあ」
お雪ちゃんが、また眼をみはって、抗議を申し込もうとする途端に竜之助がまた、
「は、は、は」
と笑いました。そこで、お銀様は、やっぱりお雪ちゃんにはとり合わずに、竜之助の方にまともに向って、
「そうして、白骨にいる間に、あなたはあのイヤなおばさんという女をどうしました」
「は、は、は」
「かわいそうなのは、浅吉という男妾《おとこめかけ》と、それからですね、もう一人……」
「は、は、は」
「それを言うと、またここにいる小娘がムキになることでしょうが、浅吉という男妾ばかりがかわいそうなのではありませんでした、まだ、たしかに一人、闇から闇へ送られたかわいそうなのがあったはずです」
「何をおっしゃるのです、それは、誰のことでございますか」
果してお雪ちゃんが躍起となりました。お雪ちゃんの躍起ぶりが、あまりに真剣であったせいか、今度は竜之助も、は、は、は、という例の軽薄極まる冷笑を浮べませんでした。そこで、お銀様が今度は、お雪ちゃんの方へ向き直って、
「誰だか、わたしは知りませんが、あの時に、たしかに闇から闇へ送られた、かわいそうな人の子が、たった一人はあったはずです」
「それを承りましょう、それを――ほかのこととは違います」
なぜか、お雪ちゃんが、お銀様の喧嘩を買うような気勢にまでいきみ立ったのが、意外でありました。
「聞きたいとおっしゃるならば、言ってみましょう、それを誰よりも早く感づいたのは、あのイヤなおばさんという人でした。そ
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