なたは夢にうなされていましたね」
それは現実の弁信の答えであって、驚いて見ると障子が白くなっておりました。
弁信法師は、昨夕のあの大風に、無事に帰れて、今朝、たった今、ここへ立戻って来たところに相違ありません。
十五
関ヶ原の模擬戦に於て、予定の如く大勝利を収め得た道庵先生は、本来ならば、あれからひた[#「ひた」に傍点]押しに、近江路を京阪に押し寄せるべきはずでなければならないのに、どういうわけか、不意に道を胆吹山の方へ向って枉《ま》げてしまいました。
それはあえて古《いにし》えの、小碓《おうす》の皇子の御あとを慕って、胆吹山神を退治せんがための目的でもなし、またどこまでも関東の大御所気取りで、胆吹の山の草の根分けても、石田の行方を探し求めんとする軍略でもなく、実を言うと、胆吹山という山は、御承知の如く薬草の種類の多いことにおいては日本一といってよろしいことになっているから、商売柄、この薬草の現場を視察して行こうと考えたまでのことであります。
それが主たる目的で、それから同時に我儘《わがまま》なあの女王様の植民地へ、大切の従者米友を貸してやってある見舞がてら、ちょっと立寄ってみようとしたまでのことであります。お銀様のために米友を手ばなした道庵は、なんとなく手のうちの珠《たま》を落したような気分がしないではないが、それでもこれからの道中、同じ江戸っ児、鉄火のようなお角さん親方と道連れの約束が出来たことによって、補われようというものです。
万事、暴女王の御意のまま、お気の済むようにさせておいて、お角さんは、道庵の面倒を見ながら、自分は京阪へ出発してしまった方が、事がテキパキと行くと考えました。そうして置いて、戻り道に立寄って見れば、この暴女王様の御意の変ることもあろうと考えたのですが、ここでまた道庵先生までが急に、薬草研究のために胆吹入りをしたいから、一日二日のところ暇をもらいてえと言い出したのにも、一向さからわず、
「はいはい、どなた様もお気の向くようになさいまし、そういうわけでしたら先生、大津でお待ち申しておりましょう、大津の鍵屋というへ宿を取って、わたしたちはゆるゆる八景めぐりでもしておりますから、薬草の御用がすみましたら、あの宿へたずねていらっしゃい。先生お一人ではいけませんから、庄公をつけて上げましょう。庄さん、お前、先生のおともをして胆吹山へお参りをしたら、その足で、江州《ごうしゅう》の大津の鍵屋伝兵衛といってたずねておいで……」
心ききたる若者を一人わけて、道庵のために附け、そうして道庵を北国街道に送り込み、お角さんは、そのまま残る手勢を引具《ひきぐ》して、銀杏《ぎんなん》加藤一行のあとを追って近江路を上りました。
こうして、いい気な模造大御所は、関ヶ原から北国街道へ送り込まれたはずなのが、どういう拍子か、フラフラとまた関ヶ原へ舞い戻って来て、すべての面《かお》なじみがみんな出かけてしまったあとで、何か少し宿にまごまごしていたが、再び出発の時は、北国街道へ向わないで、順路を柏原方面へ向けて歩き出したのは、北国街道筋に何か道路の故障があったのかとも思われます。
とにかく、道庵先生だけが急に胆吹入りという模様がえになったために、この際、草津の姥《うば》ヶ餅《もち》の別室で、安直、金茶の一行に一つの緊急動議が持ち出されました。
三ぴん連がいよいよ出発間際になって、忽《たちま》ちに円卓会議を開き、議長がプロ亀、それに安直、金十郎、エド蔵、ゲビ蔵、薯作《いもさく》、テキ州、古川をはじめ、三ぴん連の鉄中|錚々《そうそう》とまでは行かなくとも、ブリキ中のガサガサくらいのヨタ者|御定連《ごじょうれん》が席につき、この御定連の顔ぶれのうち、珍しくも紅一点の村雨女史という別嬪《べっぴん》が一枚、差加わったのは、いつも同じ顔ぶれの三ぴんばかりで、同じ楽屋落ちをやっていては、さすがの議長プロ亀も気がさす申しわけを兼ねての色どりと見えます。そこで議長プロ亀の動議を聞いていると、
「我々が常日頃、道庵退治のために、いかばかり肝胆《かんたん》を砕いているかは御存じの通り、江戸表に於ては三文安の喬庵《きょうあん》を押立て、十八文の看板を横取りしようとたくんだが、残念ながら物にならず、名古屋表に於ては、安直に大日本剣聖と向うを張らせておどかしたが、かえって枇杷島橋《びわじまばし》での藪蛇《やぶへび》、あっぱれ道庵に武勇の名を成さしめてしまった。我々三ぴんがこうまで心を合わせ、きゃつ道庵めの眼に物見せてくれんと浮身をやつすのに、きゃつ道庵めは、しゃあしゃあとして我々三ぴん連を眼中に置かぬ振舞、関ヶ原に於て大御所気取りのあの傍若無人――このまま道庵を上方《かみがた》に入れて、我々の縄張を荒させては、我々三ぴんの飯
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