屋のあるところと、自分たちの立っているところの間には、絶対的の岩角が相聳《あいそび》え立っていることにはじめて気がついたのです。
普通、山に於ての隔たりと言っても、谷と谷とを予想するのですが、つまり同じ日本中、同じ地上である限りは、山河渓谷の隔たりがあるとはいえ、河には橋、谷には桟《かけはし》を以てすれば、要するに地続きの実が現われるものですけれども、ここの懸崖というものはちょうど、地球と月世界との間の絶対と同じこと、下を見れば見るほど底の知れない断岸《きりぎし》――
そうして、その裂け目の左右を見ると、先刻見た赤い空気の湖面がいっそう面積を拡大して、山脚はいよいよ押迫っている。山も、湖面も、今は全く蛍の光そのもの同様な蒼白《そうはく》なる光線が流れ渡っているのであります。
「あ、月が上って来ましたね、もう提灯は要りません」
お銀様がこう言って、フッと蝋燭《ろうそく》を吹き消した途端に、さきに湖面山岸いっぱいに充ち満ちていた蛍のような光が、競ってこの岩窟のすべての中に流れ込みました。
そうすると、対岸の牢屋の中が、はっきりと見得られるようになりました。その中に心憎くも澄ましきって、座を構えてしきりに短笛を弄《ろう》している白衣《びゃくえ》の人の姿、それが、また極めてハッキリと浮び出て来ました。
それは白骨温泉以来の鈴慕の主です。
十一
その時に竜之助は、短笛を持ったまま、気軽にずっとこちらへ出て来ました。
ずんずんこちらへ歩いて来て、お雪ちゃんと当面の巌の直ぐ突角《とっかく》のところまで来ると、そこにずっと結びめぐらしてあった丸太の手すりに無雑作《むぞうさ》に腰をかけてしまったものですから、お雪ちゃんが、
「お危のうございますよ」
と言いましたが、竜之助は微笑しただけです。お雪ちゃんはそれから立て続けに、
「先生、まあ、あなたは、どうしてこんなところに……」
と言ってせき込みましたが、竜之助は、
「お雪ちゃん、お前どうしていたの」
「先生、あなたこそ、どうしてそんなところにいらっしゃるのです、お一人ですか、こちらへいらっしゃい」
「は、は、は、とうとうこんなところへ閉じこめられてしまったよ」
「まあ、誰があなたを、そんな岩の牢の中へ入れてしまいましたの」
「誰でもない、そ、そこにいる人がさ」
と言ったその上眼《うわめ》つかいで、お
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