にお気をつけなさい、水があります、水が流れています、妙にベトベトした水ですけれど、血ではありませんから、怖がるには及びません」
ハッとお雪ちゃんは、その水たまりの中に爪先を踏み込むと、なるほどなまぬるい。こんな奥まった岩窟の間から湧き出す清水だから、こんなに生温《なまぬる》いはずはありようはない。血ではないとあらかじめ予告をされたから、かえってこれは、生血《いきち》がどろどろ流れているのではないかと、お雪ちゃんが二の足を踏むと、お銀様から、
「そらごらんなさい。向うの岩に大小二つの滝がかかっておりましょう、あの大きいのは姉川《あねがわ》、小さいのが妹川《いもがわ》の源になるのです」
と言われて見ると、なるほど、広大に開けた岩窟の中の往年の壁面に、大小二条の滝がかかっている。飛騨の平湯の大滝だの、白山白水の滝だのを、うつつに見聞きしたお雪ちゃんにとっては、その滝が、必ずしも珍しい滝だとは思いませんけれども、周囲の異様なる景色には打たれざるを得ないのです。
「胆吹の弥三郎よりも、もっと昔、この洞窟《ほらあな》の中に山賊が棲《す》んでいたのです、大江山を追われた酒呑童子《しゅてんどうじ》の一族が、ここを巣にしていたのです。その時に、公家や民家から奪い取って来た美しい女たちを、山賊が競《きそ》って弄《もてあそ》びました。そうして、この滝壺で汚物を洗わせたということです。その山賊を征伐するために頼光父子が、渡辺の綱や金時を連れて、二万余騎で攻めかけて来たということですから、山賊の方も少々の数ではなかったんでしょう、ですから、このくらい大きな洞窟が無ければなりません。さあ、もう少し奥へ行ってみましょう」
もう少し奥へと言ってのぞき込んだお銀様のうしろ姿を、お雪ちゃんは怖ろしいと思いました。怖ろしいの、こわ[#「こわ」に傍点]いのというのは、もう通り越しているはずなのですが、その時はもう、意地も我慢もなくって、
「お嬢様、もう、わたしは、ここでたくさんです。本来わたしは、あなたとお山登りをするつもりで出てまいりました、こんな、洞窟入りをするお約束じゃなかったはずでございます」
一生懸命にこれだけのことを言いますと、後ろを振向かないお銀様は冷然として、
「いいえ――お山登りなんぞは、いつでもできます、あなたとわたし二人は、ほかに見るものと見せたいものがあればこそでしょう、暫く
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