山の頂を極めようとする弁信のために、悪いさいさきだと思わずにはおられません。
お雪ちゃんは障子を締め切って風を防ぎながら、弁信さんのために、この風が早くやむように、あまり強くならないようにと心配していると、その心配がようやく昂じて来てなりません。取越し苦労はするなと、特に戒めて行かれたにかかわらず、この時はまた弁信法師の山登りがいっそう気がかりになってたまらないのみならず、風水盗賊の難のほかにまた一つ、もしかしてあの弁信さんが、この山上に棲《す》む大鷲にさらわれてしまいはしないだろうかという懸念《けねん》さえ起って、不安に堪えられませんでした。
「弁信さんも弁信さんです――なにもわたしたちさえ御参詣をしない先に、いくら身軽だからといって、たった一人でお山登りなんぞをしないでもよいではないか」
この信友もまた、自分に気をもませる存在の一つであるように思い案じてみました。
八
その心遣《こころづか》いが、その夜、枕についてからのお雪ちゃんを苦しいものにしました。
胆吹山から吹きおろす大風の中に、袖を翻して、ひたすらに山路を登る弁信の姿を、いと小さく、まざまざと目《ま》のあたりに見ました。
胆吹山容の雄偉にして黝黒《ゆうこく》なることは少しも変らず、大風はその山全体から吹き湧き、吹き起り、吹き上げ、吹き下ろすようにのみ思われて、つまり、山全体が大きな呼吸をしているようにしか、お雪ちゃんには受けとれなかったのは、さしも大風ではあるけれども、雨というものは一滴も降ってはいず、星の空はらんかんとして、山以外の天地は至って静かなものです。そこを、山だけが盛んにひとり吹き荒れ、吹きすさんでいるものですから、山自身が呼吸をしているものとしか思われません。その度毎に、弁信のやつれた法衣《ころも》の袖が吹き裂けんばかりに吹き靡《なび》かされ、その小さな五体が吹き上げられ、吹き下ろされているのを見るばかりです。
そこでお雪ちゃんはまた、弁信をかわいそうだと見ないわけにもゆきません。ごらんなさい、あの通り、あのたどたどしい足どりを。二万|呎《フィート》以上のエヴェレストの探検家の運ぶ足どりと同様に、弁信の身が吹き倒され、吹きまろばされるから、寸進尺退の有様、見るも歯痒《はがゆ》いばかりであります。山路が嶮《けわ》しい上に、あの烈風がまともに吹き下ろすのだから
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