致しまして、そうして頂上の弥勒菩薩に御参詣を致して御挨拶を申し上げ――それから帰りには、できますことならば、別の道をとって西に降り、胆吹神社に参詣――胆吹明神と申しますのは風水竜王が御神体であらせられ、その昔、飛行上人《ひぎょうしょうにん》がこの山に多年のあいだ住んでおりまして、開基を致されたと承りました。飛行上人と申すのは、いずれのお生れか存じませんが、飛行自在《ひぎょうじざい》の神通力《じんずうりき》を得て、御身の軽きこと三銖《さんしゅ》――とございますが、三銖の銖と申しますのは、三匁でございましょうか、三十匁でございましょうか――まだ私もよく取調べておりませんが、身の軽いということを申しますと、わたくしも至って身軽の痩法師《やせぼうし》でございますが、飛行自在の神通力なんぞは及びもないことでございます故に、つとめて自重を致しまして、山険と気象に逆らわず、神妙に登山を致し、慎密に下山を致して参るつもりでございます。本来、目が見えませんから、山へ登りましても人寰《じんかん》の展望をほしいままに致そうとの慾望もござりませず、山草、薬草の珍しきを愛《め》でて手折《たお》ろうとの道草もござりません、ただ一心に神仏を念じ、他念なく登ってくだるまでのものでございます。それ故、今晩のうちには、無事に戻って参るつもりでございますから御安心下さいまし。もしまた、途中、天変地異の災難がございましたら、心静かに臨機の避難をいたしまして災難をやり過して、それから徐《おもむ》ろに下りてまいります。いかに疾風暴雨といたしましても、一昼夜のあいだ威力を続けているという例は少のうございますから、その間をどこぞに避難しておりまする間の時間――それを御考慮に入れて置いていただきましても、明朝までには間違いなく戻って参ります。そのほかには、決して御心配になるほどのおそれはございますまい。あっ、そうでございますか、なるほど、昔、日本武尊《やまとたけるのみこと》がこの山で大蛇《おろち》にお会いになって、それがために御寿命をお縮めあそばされたという歴史の真相、あれはおそれ多いことでございましたね、山神が化して大蛇となり、悪気を以て武尊をお苦しめ奉ったという歴史、これは真実でござりましょうが、今日は左様な悪気はことごとく消滅しているに相違ござりませぬ。でも、毒蛇はいない代りに盗賊が――ああなるほど、それは一
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