ずにはおられません。
 そうだとすれば、あの勢いで村里へ舞い下りたとすれば、村里一帯の不安が思いやられる!
 一匹の狼、一頭の猪でさえ村が荒される、まして肉を裂くに足る鋭い爪と、血を吸うことに慣れたあの獰猛《どうもう》な嘴《くちばし》と、それから千里を走る翼を備えた、猛禽の王様に侵入されてはたまらない――何か、あの不安を村の人に知らしてやる術《すべ》はないものか。
 お雪ちゃんは、そんなことを考えながら、再び無事にあの猛禽が中空高く舞い上り、飛び戻って来ることを望んでいたが、どうしたものか、さっぱりその音沙汰がありません。
 お雪ちゃんは、村里の安否も気になるが、猛禽の消息も気にかかってなりません。
 そんなことまで思い惑うているところへ、庭から人の足音がして、はっと思う間に、それが例によっての覆面のお銀様であることを認めました。

         五

 お雪ちゃんは、お銀様の姿を見た瞬間にいずまいを直してしまいました。無論、襷《たすき》をとって、極めていんぎんに挨拶をしました。
「ここはよい景色でございますね」
とお銀様が言う。
「はい、お館《やかた》のうちで、景色はここが一番よろしうございます」
「この松も、いい松ではありませんか」
「全く、見事な松でございます」
「あなたは、ここから見た琵琶湖附近の名所名所を御存じですか」
「いいえ――まだ、ずいぶん昔からの名所でございますそうですけれども、調べてみる暇もございません、教えて下さる方もございません」
「二人で少し調べてみましょうか」
「はい」
「お仕事が忙しいの?」
「いいえ――どうでもよろしい仕事なのでございます」
「では、もう少しこちらへいらっしゃいな」
 少しでも多くの視野を展《ひろ》げられるように、お銀様は、お雪ちゃんを自分の身に近く招き寄せましたから、お雪ちゃんはそのまま縁先ににじり寄ると、
「ごらんなさい、あの比良ヶ岳から南へ、比叡山の四明ヶ岳――その下が坂下《さかもと》、唐崎、三井寺――七景は雲に隠れて三井の鐘と言いますが、ここではその鐘も聞えません。唐崎の松は花より朧《おぼ》ろにてとありますが、その松もここでは朧ろにさえ見えはしません」
「けれどもお嬢様、そのつもりで、こうして眺めておりますと、三井寺の鐘が耳許《みみもと》に響き、唐崎の松が墨絵のように浮いて出る気持が致すではございませんか」
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