ともをして胆吹山へお参りをしたら、その足で、江州《ごうしゅう》の大津の鍵屋伝兵衛といってたずねておいで……」
 心ききたる若者を一人わけて、道庵のために附け、そうして道庵を北国街道に送り込み、お角さんは、そのまま残る手勢を引具《ひきぐ》して、銀杏《ぎんなん》加藤一行のあとを追って近江路を上りました。
 こうして、いい気な模造大御所は、関ヶ原から北国街道へ送り込まれたはずなのが、どういう拍子か、フラフラとまた関ヶ原へ舞い戻って来て、すべての面《かお》なじみがみんな出かけてしまったあとで、何か少し宿にまごまごしていたが、再び出発の時は、北国街道へ向わないで、順路を柏原方面へ向けて歩き出したのは、北国街道筋に何か道路の故障があったのかとも思われます。
 とにかく、道庵先生だけが急に胆吹入りという模様がえになったために、この際、草津の姥《うば》ヶ餅《もち》の別室で、安直、金茶の一行に一つの緊急動議が持ち出されました。
 三ぴん連がいよいよ出発間際になって、忽《たちま》ちに円卓会議を開き、議長がプロ亀、それに安直、金十郎、エド蔵、ゲビ蔵、薯作《いもさく》、テキ州、古川をはじめ、三ぴん連の鉄中|錚々《そうそう》とまでは行かなくとも、ブリキ中のガサガサくらいのヨタ者|御定連《ごじょうれん》が席につき、この御定連の顔ぶれのうち、珍しくも紅一点の村雨女史という別嬪《べっぴん》が一枚、差加わったのは、いつも同じ顔ぶれの三ぴんばかりで、同じ楽屋落ちをやっていては、さすがの議長プロ亀も気がさす申しわけを兼ねての色どりと見えます。そこで議長プロ亀の動議を聞いていると、
「我々が常日頃、道庵退治のために、いかばかり肝胆《かんたん》を砕いているかは御存じの通り、江戸表に於ては三文安の喬庵《きょうあん》を押立て、十八文の看板を横取りしようとたくんだが、残念ながら物にならず、名古屋表に於ては、安直に大日本剣聖と向うを張らせておどかしたが、かえって枇杷島橋《びわじまばし》での藪蛇《やぶへび》、あっぱれ道庵に武勇の名を成さしめてしまった。我々三ぴんがこうまで心を合わせ、きゃつ道庵めの眼に物見せてくれんと浮身をやつすのに、きゃつ道庵めは、しゃあしゃあとして我々三ぴん連を眼中に置かぬ振舞、関ヶ原に於て大御所気取りのあの傍若無人――このまま道庵を上方《かみがた》に入れて、我々の縄張を荒させては、我々三ぴんの飯
前へ 次へ
全104ページ中60ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング