ごう》、組んずほぐれつ、収拾すべからざる大乱闘が捲き起されてしまったことは、船長室まで手に取るように聞えて来ました。
「まあ、なだめに行った船頭さんたちを相手に、また乱暴をはじめたようです、どう致しましょう」
「困ったことだ」
 駒井は苦り切っている。お松はいても立ってもいられない心持。あちらの船室内の騒動はいよいよ驚天動地。
「ほんとうに、田山先生がいらっしゃるといいのですが……」
 お松としても、時|艱《かん》にして英雄を思うの情に堪えられないが、徒《いたず》らに英雄を想うのみで、この際、自分としてはなんらの施すべき策も手段もありません。
 捨てて置けば、幾つかの人命にも関するほどになりはしないか――この上は、是非に及ばない、自分が出動して取りさばくよりほかはないと、駒井も思案して立ち上りました。お松もおどおどしてその後に従い、乱闘の方に進んで行きましたが、お松の心では、この殿様を、あんなところへお出し申したくはない、こんなことにまでいちいち殿様の御足労を煩《わずら》わさねばならないかと、痛々しさに堪えられませんでした。
 いかに酔っていても、船長の命令に服するだけの常識は残っているだろうが、もし、それをきかない時は、この殿様が御自身手を下して、あんな奴を御成敗――といっても、人間はダラシがないにはないけれども、船としてはいま無くてならない人になっているあのマドロス、殿様もあれを失いたくはなくていらっしゃるだろうから、思い切った御成敗をなさるわけにはゆかない、そうすると、あれが増長する。
 お松は、どうかして、この殿様をあの場へやりたくない。できることなら自分が出向いて取締りをつけてやりたい。しかし、ああなっては気ちがいよりも怖いのだから、わたしの力なんぞではどうすることもしようがない。
 ああ、困ったことだ。
 お松は、じりじりとじれる足どりで、駒井に従いながら、実はその行手に立ちふさがりたい心持です。
 こうして、一歩一歩乱闘の室に近くなった時分に、急にそのけたたましい喧噪《けんそう》がいくぶん緩和されたような気分になったのは意外でした。それでも、たしかにそうです。獣の狂うような渦巻が急にいくらか和《やわ》らかになってきたようだと感じた途端――女の声で、
「マドロスさん、いいかげんになさい、そんな乱暴をしないで、わたしのところへ来てお休みなさい、まだ夜が明けたわけじゃないから、もう一休み、ゆっくりと寝ましょうよ、ね、マドロスさん……」
 それは、兵部の娘の声であります。この女性の声が乱闘の中へ流れ込んだものですから、それで獣の噛合《かみあ》いのような渦巻がいくぶん緩和されたものでありました。
 それを聞くと、甲板の上で、駒井甚三郎とお松とが、言い合わせたように足を止めていると、マドロスの声で、
「お嬢さんと、寝る、寝る、よろしい、寝る、寝る、よろしい、チーカロンドン、ツアン、バツカロンドン、ツアン」
 急に御機嫌が直ったマドロスが足踏みおかしく、よろよろとよろけた体を、兵部の娘に持たせている様子が手にとるようです。
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もえさんと
寝る、寝る
よろしい
チーカロンドン
バツカロンドン
ツアン
[#ここで字下げ終わり]
 まさしく茂太郎の株を、この不埒《ふらち》なるマドロスめが奪って、そうして、兵部の娘にあやされながら、その寝室の方へと転げ込んで行く様子が、いよいよ手にとるようです。やがて一切の喧囂《けんごう》が拭うたように消え去ってしまいました。
 甲板の或る一点に、申し合わせたように足を止めた駒井甚三郎とお松は、そこで面《かお》を見合わせました。
 けれども、駒井の面にも、お松の面にも、まあこれで安心という快い色は見えませんでした。そうして二人とも、なんとなく興ざめ面で、無言にとって返さなければなりません。
 お松は、ここでちょっと駒井に取りなす言葉のきっかけを失った思いです。事実、この際、もゆるさんが、あの人を自分の寝室に引取ってくれたから、それでようござんしたとも、いけませんでしたとも、お松としては言えなかったものですから、そのまま暫く無言で、船長室へ引返す駒井甚三郎のあとに従い、無言でたじたじと引返すよりほかはありませんでした。
 そうして、お松は親柱のところへ来ると、また、思わずギョッとして立ちすくんでしまい、
「まア――」
 檣柱《ほばしら》の下の俵を積んだ上に、人が一人、黙って坐り込んでいる。
「茂ちゃんじゃないの」
「あい」
「まア、お前――」
 お松は、呆気《あっけ》にとられました。出鱈目《でたらめ》のうちの出鱈目、饒舌《じょうぜつ》のうちの饒舌である清澄の茂太郎が、ほとんど化石の彫刻みたように、チョコンとしてその俵の上にのせられたもののように坐っていたからです。
 熟睡していた人
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