な脂《あぶら》ぎったでぶでぶの洋服男が一つ現われて、いきなり、裸体婦人の後ろから羽掻《はがい》じめにして、その髯だらけの面を美人の頬へ押しつけて、あろうことか、その口を吸いにかかったのです。幻像がそうなった時、こんがらかった主膳の三ツ眼が全くくらくらとして、手が早くも躍動すると、無茶に畳に落ちた折鏡の全体を拾い取り、力を極めて、発止! と投げつけたのが日頃お絹が身だしなみをするところの丸鏡の正面であります。
 在来の鏡台にかかった日本の鉄製の磨かれた丸鏡と、舶来の四角なガラス鏡とが発止とかみ合って火花を散しました。しかし、どちらがどれだけ損害の程度が大きかったかということなんぞに頓着もない主膳は、それから自分の部屋へ走り戻ると、急いで衣服を改め、わななくような手つきで足袋をはき、紙入を懐中へ押しこみ、それから大小をさし込み、頭巾《ずきん》をかぶりこみ、いよいよ本物の物狂わしい気色《けしき》になって、この屋敷の裏門から、ふらふらと外へ出かけて行ってしまいました。
 その後ろ姿を見ると、ふらふらとして、まさしく物につかれたような姿で、どうかすると、机竜之助がこんな姿で人を斬りに出かけることがある。
 その後ろ姿を、庭に遊んでいた子供たちがきわどいところで認め、
「あれ、殿様が、どっかいらっしゃるよ、わたしたちにはだまってさ」
「ああ、三ツ目錐《めぎり》の殿様が、ないしょでどこへかいらっしゃるよ」
「こっそりとね――おかしいわね」
「きっと吉原へ行くんだよ」
「そうだわ」
「そうに違いないよ」
「頭巾をかぶってさ」
「吉原よ」
「吉原たんぼは水たんぼ」
「吉原へ何しに行くの?」
「きまってるじゃないか、お女郎買いにさ」
「あ、そうだ、よしんベエを買いに行くんだろう」
「そうなんだね」
「そうよ」
「そうにきまってるよ」
「憎らしい殿様、ビビ――」
と女の子の一人が、眼をむいて、主膳の後ろ姿に向って唇を突き出すと、
「ビビ――」
 寄っていた子供たちが、すべて、出て行った神尾の後ろ姿に向って、眼口を突き出しました。
 こうして、屋敷の裏門を出た神尾主膳は、子供たちの想像するように、必ずしも吉原へ行くものとは受取れない。
 根岸の里をふらつき出した神尾主膳は、どこをどう踏んでいるのだか、自分でもよくわかってはいないらしい。ふらふらふらと、人通りのないところ、或いは人通りの劇《はげ》しいところを、無性に歩いて来たが、あるところで、
「駕籠屋、築地の異人館まで急いでくれ、異人館、知っているだろう、赤髯の巣だ、毛唐が肉を食っているところだ、行け行け、異人館へ乗りこめ――酒料《さかて》はいくらでも取らせてやる」
 やがて威勢のいい駕籠の揺れっぷりで、神尾主膳の身はかつがれて宙を飛んで行く。
 その行先は、もうわかっている、すなわち築地の異人館。



底本:「大菩薩峠15」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 九」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月20日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年1月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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