の至宝とは何物ですか」
「それはなあ、もちろん伊達家のことだから、天下無二の宝が数知れず宝蔵の中に唸《うな》っているには相違ないが――貴殿御執心の永徳よりも、それこそ真に天下一品として、王羲之《おうぎし》の孝経がござるはずじゃ」
「王羲之の孝経――」
 これを聞いて白雲が一時《いっとき》、眼をまるくして栄翁の面《かお》を見つめましたが、押返して、
「それは、いささか割引がかんじんじゃ、大諸侯の物とて、一から十まで盲信するわけにはゆかん。いったい、羲之の真蹟はすべて唐の太宗《たいそう》が棺の中まで持ちこんで行ってしまったはずで、支那にも、もはや断簡零墨《だんかんれいぼく》もござらぬそうな」
「ところが、伊達家の羲之には、れっきとした由緒因縁がある、しかも、それには唐の太宗の御筆の序文までがついているそうじゃ」
「ははあ――眉唾物《まゆつばもの》ではござるまいなあ。まさか、奥州仙台陸奥守のことでござるから、嘘にしても何かよるところがあるでござろうがな」
「あるある、大いにある、そのよるところを話してお聞かせ申そう」
 ここまで主客の間に話が進んだ時、来客で話の腰を折られて、それぎりになりました。
 主人としては、なおくわしく、伊達家所蔵の王羲之の孝経――しかも唐太宗親筆入りという絶代ものの出所来歴を話して聞かせたかったらしいが、話がそこで折れた上に、その後は忙がしく、白雲もまた、いかに伊達家のことなりとも、羲之の真筆は少々割引物として、問いをほごすことをしてみませんでした。
 そこで、伊達家の王羲之は立消えになったままで、白雲がこの邸を暇乞いをする最後まで復活しなかったのです。
 けれども、この家の主人として、白雲が打立つ時に、仙台へ向っての有力なる紹介者となって、白雲の落着きを安くしてくれるの親切は残りました。その紹介者のうちに、
「仙台へ着いたら、ともかくも、玉蕉女史《ぎょくしょうじょし》をたずねてごらんなさい」
というのがありました。
 玉蕉女史――とは何者?
 それは才色兼備の婦人で、ことに漢詩をよくし、書をよくし、画を見ることを知り、客を愛し、旅を好む。ことに漢詩を作ることに於て最も優れている。
 ははあ、これは珍しい。婦人で、才気ある婦人は必ずしも珍しいとはしない、三十一文字《みそひともじ》を妙《たえ》なる調べもて編み出し、水茎のあとうるわしく草紙物語を綴る
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