――金椎の厨房《ちゅうぼう》から饅頭《まんじゅう》を取って来て、ひそかに兵部の娘に食わせたり、食ったりしたなどは別として――にこれまで来たのに、そうして、今夜一晩は特に静粛にという船長の命令もようやく呑込んでいたのに、九十里のところで物の見事にぶちこわしてしまったということは――それは必ずしも御当人に、航海中たくわえられた反抗心があってそうさせたのではない。あのだみ声の呂律《ろれつ》でも、足踏みのしどろもどろでも分る通り、酒という魔物が手伝って、あれをああさせているのだ。
 それにしても、誰が酒を飲ませた。船中では一切飲ませないことにしてあったはず――飲みたくも、飲ませたくも、酔わせるだけの分量は貯えてなかったはずなのに。
 ははあ、では、あいつ待ちきれなくなって、早くもこっそりと小船に乗るかなんぞして、岸へ抜けがけをして、あのアルコール分を身体《からだ》の中へ仕込んで来たのだな、そうと解釈するほかはない。
 そうだ、そうしてアルコール分をしっくりと体内に仕込んで帰って、いい気持で寝床にもぐり込むはずのところを、その仕込んだ分量が超過したものだから、ついにあの呂律となり、あのステップとなってしまったのだ。
 ちぇッ――世話の焼けた奴だなあ。
 まず、最も近い室の房州出の船頭の二人が眉をひそめると、同様の思いが、お松にも、駒井の室へも響かないということはありません。
 しかし、マドロスにこうもアルコール分が廻った場合に、この船内では遺憾ながら、それを制裁する実力を持ったものが一人もありませんでした。
 ウスノロはウスノロだが、体格は図抜けていて馬鹿力があるし――田山白雲でもなければこれに対抗するものはないのです。今のところでは、手をつけるより、手をつけないで自然の鎮静を待つよりほかはないと船頭はじめ眉をひそめて、苦々しく思っているのだが、あいにくそのアルコール分はいよいよ沸騰するだけで、いつ鎮静の時を得るか分らないもののようです。
 船長室へ駈けつけたお松が、駒井の迷惑と共鳴して、
「こっそりとお酒を飲みに、陸《おか》へ上ったのでございましょう」
「困ったものだ」
 駒井甚三郎も真に当惑の色であります。
 そのうちに、たまり兼ねたか船頭が取鎮めかたがたなだめに行ったもののようです。ところがその結果はかえって石灰の中に水を入れたような結果になり――喧々囂々《けんけんごう
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