せる奴だが、描く奴も描く奴だ、こん畜生!」
と言いながら主膳は、畳の上の鏡の裏絵の裸体美人へ、自分の鼻先をこすりつけるほどに持って来て、香いをかぐかのようにながめ入りました。
「ちぇッ」
 実際、腹の立つほどうまく描けていやがる、肉がそのまま浮いて出ている、肌の光沢が生き写しになっていやがる、それに、この生《なま》たらしい笑い顔はどうだ、生のものをそのまま取って来て描きやがったのだ、描く奴も描く奴だが、描かせる奴も描かせる奴だ、そうしてこの鏡の裏絵なんぞにして、大びらで世間へ向けて売り出す、不埒《ふらち》千万だ。
 日本の女なんぞは、どんなに恥知らずだって、自分の姿を、裸にして描かせて売らせる奴はない。また、どんな堕落した絵かきだって、女の丸裸物を描いて市中へ売ろうなんぞということはしない。また、たとい売女遊女にしても、色は売るけれども、裸になった姿を描かせるような奴はまだ一人もいない――毛唐はそれを平気でやる。
 毛唐は獣なのだ。だから、女を可愛がるにしても、イキな身なりや、すっきりした姿を可愛がるんじゃない。女を買うにしても、裸にしなけりゃ満足ができないのだ。遊ぶにしたところで、蘭燈《らんとう》の影暗く浅酌低吟などという味なんぞは、毛唐にわかってたまるものか。あいつらは、女を玩《もてあそ》ぶに、女を裸にして玩ばなければ満足のできないやからなのだ――ちぇッ、いいざまをして、この女《あま》め、笑ってやがる、小憎らしい笑い方だなあ――
 主膳はこう言って、三眼|爛々《らんらん》として、西洋婦人の豊満な肉体美をながめているうちに、その女のかおかたちがだんだんお絹に似てくる。お絹でありようはずはない、第一、頭が金髪で、色の白さは似ているとしても、その肉づきがお絹でないことはわかりきっているが、嬌然《にっこり》笑っているいやらしい笑い方が、だんだんとお絹の面になってくると、肉体そのものまでが異人ではない、明暮《あけくれ》自分のそばにいるあの模範的の淫婦娼婦だ。
 そう思ってくると、その笑い方が、からかい気味になったり、思わせぶりになったり、いやがらせ気味になったりして、主膳をなぶって来る。
「ちぇッ」
 主膳の三ツ眼はクルクルとして、その絵の傍へもう一つの幻影をこしらえて、それを燃ゆるような眼で睨《にら》み出しました。もう一つの幻影というのは、そこへ、赤髯《あかひげ》の大き
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