たものです。
 白雲は、それから「奥の細道」の一巻を、道ながら、手より措《お》かずに、ある時は高らかに読み、ある時は道しるべの案内記として、足を進めて行きました。
 白雲が「奥の細道」に愛着を感じていることは、一日の故ではありません。およそ、旅を好むものにして「奥の細道」を愛読せざるものがあろうとは思われません。
 白雲もまた、芭蕉の人格を偉なりとすることを知っている。その発句の神韻《しんいん》は、到底、後人に第二第三があり得ていないことを信じている。その発句のみではない、その文章がまた古今独歩である。黄金はどこへ傷をつけても、やっぱり黄金である。人格となり、旅行となり、発句となり、文章となるとはいえ、いずこを叩いても神韻の宿ることは、あたりまえ過ぎるほどあたりまえのことだが、その文章のうちでも、この「奥の細道」は古今第一等の紀行文である。単に文章家として見たところで、馬琴よりも、近松よりも、西鶴よりも上で、徳川期では、これに匹敵される文章は無い。少なくとも鎌倉以来の文章である――白雲は、かく芭蕉の紀行文を愛して、その貧弱な文庫にも蔵し、その多忙なる行李《こうり》の中にも隠さないということはなかったのですが、今度は忘れて来た。そうしてその忘れた時に最も痛切なる必要を感じてきた。今その一冊を持ち合わせないことが、秋風の吹きそめた時、袷《あわせ》を一枚剥がれたように、うすら寒い。
 ところが、それが、目の前に、投弓の家にころがっていたものですから、若干の草鞋銭なんぞは辞退しても、これをかっさらって行こうという賊心に駆《か》られたのも、また無理のないところがありましょう。それがすんなりと、草鞋銭も、「奥の細道」も二つながら、かすめ得たものですから、心中の欣《よろこ》び、たとうる物なく、明治二十年代の子供が「小国民」を買ってもらった時のように、嬉しがって、声高に読み且つ吟じて行くという有様です。
 白河の関にかかりて旅心定まりぬ――なるほど、旅心定まりぬがいい――この一句が、今日のおれの旅心を道破している。
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「『いかで都へ』と便りを求めしもことわりなり。なかにもこの関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉《もみぢ》を俤《おもかげ》にして、青葉の梢なほあはれ也。卯《う》の花の白妙《しらたへ》に、茨《いばら》の花の咲きそひて、雪にも
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