なにとぞしてこれらが仲を一味させたいといろいろ工《たく》めども、為《しょ》うずるようもなかったが、あるとき児ども一処《いっしょ》に集まりいたとき、父|下人《げにん》を召《よ》うで、『樹の楚《いばら》をあまた束《たば》ねて持ってこい』というて、その束《つかね》を執って、数多《あまた》を一つにして縄をもって思うさま堅う巻きたてて子どもに渡いて『これを折れ』という、児共われもわれもと力を尽して折ってみれども、すこしも叶わなんだ、そのとき父堅く巻きたてしをほどき、一把《いちわ》ずつ面々に渡いたれば、造作もなく折った、それをみて父のいうは、『めんめんもそのごとく、一人《いちにん》ずつの力は弱くとも、たがいにじゅっこんし、志を合わするにおいては、なにとした敵にも左右《そう》無うとり拉《ひし》がるることあるまじいぞ……』と言い終った。
下心《したごころ》
互いの一味をもって人間の仲も強く、また不和なときは国家も滅びやすいという義じゃ」
[#ここで字下げ終わり]
駒井甚三郎がこの条《くだり》を読み了《おわ》ると、お松が、
「このお話はどうも、わたくしが子供の時に聞いた毛利元就《もうりもとなり》公のお話と、あんまりよく似過ぎておりますから、ことによると元就公のお話を、こんなふうに書き改めたのではないかとも思われるのでございますが」
駒井がそれを聞いて、頷《うなず》いて、
「なるほど、そう思われるのも決して無理はないが、事実はそうではないのだ。いったい、この伊蘇保の物語というのは、今から二千年も前に出来た本なのだから、毛利元就の時代より遥かに遠い。だから疑えば毛利元就のあの三人の子供に弓の矢を折らせたという物語は、かえってこの物語から出たつくり話ではないかと疑うのが当然なのである。しかし、もう少し同情した考えようによると、日本でこの本がはじめて翻訳されたのは文禄三年ということだが、それ以前に日本へ来た宣教師や外人によって、なんらかたとえ話となって日本人の口に膾炙《かいしゃ》していたかも知れない、それを元就が聞き知っていて、自分の最期《さいご》の遺言に利用したものと見られないこともあるまい」
「そういう順序でございましょうか。なんにしても大へん結構なお話で、偉い父親ならば、きっと利用しそうなお話でございます」
それから、駒井は、そう解釈するのが親切であって、たとえ話などと
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