雲、急に気がついたことがあると見えて、心急いだ人が電話口でお辞儀をするように、遠眼鏡を一層深くのぞき込んで、
「ア! ウスノロ! うすのろ[#「うすのろ」に傍点]だ、あいつだ……」
と、下にいる待合客のすべてがびっくりしたほどに一つの叫びを立ててしまいました。
事実、白雲が絶叫したのも無理がありません。そう思って見ると、ことに遠眼鏡という視力の飛道具を使用して見れば、いよいよそれはそれに相違ないことで、眼の玉の碧《あお》いことはわからないが、髪の毛の唐もろこしの房のように赤いことが、はっきりとわかってくる。
このウスノロの力の強いことは、さすがの白雲も一時はタジタジとさせられた体験がある。なかなかかいなでの老人子供の手に合うものではない。ああして立て直して返り討の形になり、二人に悲鳴を挙げさせているのも無理のないところだが、それはそうとしてあいつをここで見ようとは思わなかった。もとよりあいつを探しに出た目的の旅ではあるが、こんなところで、あんなことをしているあいつを、こうして発見しようとは思わなかった。
何のためにあいつ、こんなことをしているのだ――それはわかっている! というのは、あのウスノロがこういうことをやり出すのは今に始まったことではない、あいつは本来がウスノロであって、ジゴマでもなければ、ギャングでもないのである。強盗殺人をしようの、詐欺横領をしようのというほどのたくらみはあいつには無いのだ。あいつが人を犯し、人から咎《とが》められることのかぎりは食《しょく》と色《しき》との外に出ないのだ。食といったところで、あれのは、いよいよ飢えに迫って堪えられなくなったところに至って、初めてノコノコと人里へ出て来て、その当座の飢えを凌《しの》ぐだけのものをかっぱらって来る以上の仕事はできないのだ。それから色、すなわち性慾のことだって、あいつのは、なにも特に巧言令色に構えこんで、色魔だとか、誘惑だとかいう手段で行くのではない、眼の前へ異性の女の肉のかおりがうごめいて来る時に、ついついたまらなくなってかぶりつくまでのものだ。
今の事情が、またそれを証明させる。あいつ無闇に親船を駈落《かけおち》して来は来たものの、本来あの兵部の娘にしてからが、そんなに思慮の計算のあるやから[#「やから」に傍点]ではない、人の金を持ち出して、二十日余りに四十両の五十両のと使い果してか
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