渉がなければならないのだが、何もない。従ってこちらへ累《るい》が及んで来ない。そこはどうしても彼の好意でもあり、苦心の存するところと思うから、それをこちらから進んで明白にしてしまったんでは、彼の好意と苦心を無にした上、おたがいの迷惑と犠牲を大きくするようにならんとも限らぬ。もう少し考えた上で、おたがいの安全を期しつつ、彼を無事にこの船中へ取納める方法を講ずるがよかろうではないか」
「なるほど、そのへんもありましょうな。窮迫しても彼が、駒井氏や無名丸を肩に着ようとしないし、直接にここへ目指して逃げて来ようとしないところに、彼の思慮は充分見えるようです。では公然のもらい下げ運動は見合わせるとして……」
その次の方法でありました。そこへお松が意見を述べたのは、
「わたし一人で出かけてはいかがでしょう、わたしならば人様も疑いますまいから、巡礼の姿にでもなって、そうしてムクを連れて行けば、きっと探し当てられると思います。わたしをやっていただきましょう」
「いや、それはいけまい、言語風俗の違う若い娘が巡礼姿にやつすとはいえ、たった一人で、その辺をうろつくなんぞということが、かえって人の眼につき易《やす》い。それにムクは、また目立ち過ぎる」
評議半ばのところへ、扉をやや手荒く外からおとなう者があります。
「誰だ」
扉を開いて、板張にかしこまっている男。
「船頭でございます」
「何か用か」
「あのムクが帰りましたそうでございますが、どうか、さきほどお願《ねげ》え申した通り、ムクをお借り申してえんでございます」
「うむ……」
と駒井が、急に返答をしないでいると、白雲が船頭に向って言いました、
「ムクを借りてどうしようというんだ」
「はい、ムクをお借り申しまして、マドロスの奴を追いかけてみてえと思って、殿様にさきほどお願え申してみたでございます。マドロスの野郎、思えば思うほど胸の悪くなる畜生だ、殿様の御恩も忘れやがって、わしどもを踏みつけにしやがって、どうしても腹が癒《い》えねえから、ひとつ、ムクが帰ったらば、ムクをお借り申して、あいつのあとを追いかけて、とっ捕まえて、思うさまひとつ懲《こら》しめてやらねえことにゃ……」
船頭は、余憤堪え難き風情《ふぜい》で、駒井へ直訴《じきそ》に来たものらしい。
ところが駒井は、いいとも悪いとも言いません。
つまり、うむ、では、直ぐに出か
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