米磨桶《こめとぎおけ》もあれば手桶もあり、荷桶もあれば番手桶《ばんておけ》もあり、釣瓶《つるべ》の壊れたのまで、ごろごろしているところを見れば、今日一日の雇いきりに限らず、当分失業問題は起らないものと見なければなりません。
お松は困ったと思ったが、どうも仕方がない――何かの機会にこの桶屋さんが、ちょっとでもこの座を立つ機会を待って素早く使命を果してしまうよりほかはないと思いました。
そこで、暫くあちらこちらさまようて、桶屋さんの動き出す隙を待っていたが、泰然として座を構えこんでしまった桶屋さんは、容易に動き出さないのです。いいかげんの時分になると、座右からかます[#「かます」に傍点]を取り出して、カチカチと火をきって、ぷかぷかと二三ぷく煙草をのんでしまっては、さて悠々と、老木の梢の上なんぞを上目づかいでながめて、鶯《うぐいす》がどこへ来ているか、雀が何羽止ったかという数なんぞ読んでいる様子が、お松にとっては、いよいよ小憎らしいばかりです。
そこで、遠廻りをして臥竜梅のうしろの方へ廻り、そこから桶屋さんの隙をねらって、うつろへ投げ込もうかとしましたが、気のせいか、どうもこの桶屋さんが、それとなく自分の行動を注意しているように思われないでもありません。
とうとう、近づきかねたお松は、いったん瑞巌寺の外へ出てしまって、法身窟のあたりの小暗い杉の中を歩み歩み行きました。
「どうも仕方がない、あの桶屋さんに追立てを食ってしまったようだ、なにも桶屋さんがわたしの仕事に意地悪をしようとしてあそこにいるわけではないが、わたしにはそうとしか思われてならない、ただの桶屋さんにしては、なんだか気が置け過ぎるのが、つまりわたしの疑心暗鬼というものでしょう、あの桶屋さんに圧迫されて、知らず識《し》らずわたしははみ出されたようなことになってしまった――どうも仕方がない、もう少し、よそを歩いて、また来てみましょう」
お松はこんなひとり言を言って、お弁当を抱えたまま、まもなく松島の海岸の方をぶらつきはじめました。
お松がこうして臥竜梅の下から圧迫され、ハミ出されたのと反対に、庫裡《くり》からひょっこりと身を現わしたのは田山白雲でありました。
白雲は極めて気軽に出て来ましたが、手には写生帖と矢立を持って、早くもこの臥竜梅の姿に目をとめながら、近づいたり、やや遠のいたりして、ためつすがめ
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