み》であることを見ると、
「おばさん――あなたはまだ本当に死にきれていないのではないのですか」
と、着物に向って呼びかけずにはおられませんでした。
 それと同時に、お雪ちゃんは、この着物がどうしてこうまで自分の手を離れないでいるのかと、それとこれとをじっと見くらべておりました。

         二十二

 そうして、もう日も入りかけて、兵馬も帰って来なければならない時刻になっても、お雪ちゃんは頭をあげませんでした。その時、不意に縁側に人影があって、
「お雪ちゃん」
「まあ、弁信さん!」
 縫物も、針も、物差も、香箱もけし飛んでしまいました。
「お雪ちゃん、わたくしは、そうしてはおられないのです、これからまた直ぐに出かけなければなりません」
 してみると、この僧はお雪ちゃんばかりを当てにして……来たのではないらしい。
「え!」
「どうぞ、おかまい下さいますな、そうしてはおられません」
「どうしたのですか、弁信さん、そうしてはおられないとおっしゃるのは」
「この足で、また出かけなければなりません」
「どこへですか」
「どうも、なんとなく、わたくしの気がせわしいのです」
「だって、弁信さん、わたしじゃありませんか……あなたの落着きなさるところと、わたしの待っているところとが、ここのほかにあるのですか」
「あります」
「おや――では、弁信さん、あなたはわたしを訪ねておいでになったのではないのですか」
「もちろん、あなたに引かされて、ここまで参りましたけれども、このままでは気がせいて、落着く気になれませんのです」
「まあ……」
 お雪ちゃんは全く呆《あき》れてしまいました。夢のように待ち焦《こが》れていた弁信さんその人が、現にここに来ているではないか。それだのにその人は、わたしを物の数とも思っていてくれないというのは、何という異った世界になったのでしょう。
「では、お雪ちゃん、わたくしはこれで失礼して、これから急いで、ともかくも行って見て参ります」
「どこへですか、弁信さん」
「どこへというのは、お雪ちゃん、わたくしの方であなたにお尋ねすべきところで、わたくしの方から答えるのは、逆問答になるのでございます」
「弁信さん、あなたの言うことがわかりません、以前の弁信さんなら、わかり過ぎるほどにわかっているくせに、ほんとうにあなたは僅かの間に別の人になっておしまいのようでございますね」
「いいえ、別の人になったわけではございません、お雪ちゃんが昔のお雪ちゃんなら、弁信もまた昔の弁信でございます、もしまたお雪ちゃんが、昔のお雪ちゃんでないならば、自然、この弁信も昔の弁信ではないことになります、変ったとすれば、それはどちらでございましょう」
「わたしは変りません」
 お雪ちゃんは意気込んで言いました。
 そうして、なお附け加えて言うことには、
「弁信さんは眼が見えないから、変ったとお思いになるかも知れませんが、わたしはこの通り、少しも変りません」
「そうですか、でも、わたくしにはどうしても昔のお雪ちゃんを懐かしがるように、懐かしがる気にはなれません」
「どうしてですか、弁信さん」
「どうしてだか知りませんが――わたくしのこの心が落着きません、わたくしの尋ねるお雪ちゃんという人の声は、ここでしているのには相違ないが、魂に触れることができません、お雪ちゃんの魂は……」
「弁信さん、久しぶりにお逢いしたのに、のっけからそんな理窟をおっしゃるものじゃありません。わたくしのほかにわたくしは無いのですよ、もし、あなたが、わたくしの声をお聞きになったのなら、それが本当のわたくしじゃありませんか。神様のように鋭い勘をお持ちなさるくせに、弁信さんは」
「そうではありません、わたくしは現在ここで声を聞くお雪ちゃんのほかに、もう一人のお雪ちゃんがあって、それが行方定めぬ旅に出ているとしか思えてなりません。しかもその行方定めぬ旅というのが、火の坑《あな》へ転げ込んで行く、お雪ちゃんの赤ん坊そのままです――あなたは自分の赤ちゃんが、地獄の火の坑へ這入《はい》って行くのをそのままに見ておられますか。でも世間には、自分の可愛ゆい片身《かたみ》を、罪の塊りだなんて闇から闇に送る親もないではありませんが……」
「ほんとにいやな弁信さん、昔の弁信さんはさっし入りがあって、親切で、有り余るほどの同情をすべてに持って下さったのに、今、久しぶりでお目にかかった最初に、まあ、なんといういやなことばかりおっしゃるのですか」
「いやなことを申し上げるつもりで言っているのではありません、わたくしの尋ねるお雪ちゃんの片身が――片身というのもおかしいようですが、やっぱり、魂と申しましょうか、その魂がここにおりませんのです」
「ほんとに困ってしまいます」
 ああ言えばこう言う弁信の着早々の理窟に、お雪ちゃんは何と挨拶していいか、悲しい面《かお》をして立ち迷うよりほかになくなっているのを、弁信は、そっけないもののように、
「では、わたくしは、これからそのお雪ちゃんのあるべくして、あるべからざるもののために出かけてまいります」
と言って、腰を一つかけるでもない弁信は、さっさと歩き出してしまいました。
「まあ、待って下さい、弁信さん」
 お雪ちゃんは、たまり兼ねて跣足《はだし》で飛び出したところへ、出逢頭に宇津木兵馬が帰って来ました。
 宇津木兵馬は、そのあわただしい光景を見て非常に驚きましたけれども、追いかけるお雪ちゃんよりも、追いかけられる当人が、あまりに痛々しい、弱々しい、見すぼらしい、おまけに盲目《めくら》としか見えない小坊主でしたから、それを遮《さえぎ》りとどめようとする気になれませんでした。
 いったん跣足《はだし》で飛び下りたお雪ちゃん、それでも草履《ぞうり》を突っかけたまま、坂路を下りて行く弁信のあとを、息せき切って追いかけました。追いかけると言ったところで、相手が、七兵衛でもがんりき[#「がんりき」に傍点]でもありませんから、お雪ちゃんにも雑作なく追いつくことができました。
 追いついてさえしまえば、ここでお雪ちゃんが、弁信を手放してしまうはずはないにきまっております。

         二十三

 それから暫く経つと、宮川の岸の人通りの淋しい土手の上を、極めて物静かに肩を並べて歩いているお雪ちゃんと弁信とを見ることができました。
「よくわかりました、弁信さんのおっしゃることが、すっかり呑込めてしまいましたから御安心ください……わたしも、こうして、あなたを追いかけて来たのは、この辺でゆっくりとわたしからお話をしたいことがあったからなのです、あの寺ではくわしいお話のできない事情がありましたものですから」
「左様でございましたか」
「弁信さん、ほんとうにわたしは、物語にも書けないほど奇妙な縁に引かされて、きわどいところに身を置かされており、どちらにも同情を持たなければならないのに、そのどちらもが敵同士《かたきどうし》とは、因果なことではありませんか」
「そうでございますね」
「昨日までは、わたしはあの人のために、身を捧げて介抱をしておりましたが、今日はそれを敵と覘《ねら》う人の情けを受けて、知らず識《し》らず生活を共にしてしまっているのです、そうしてわたしは、どちらも憎めないばかりでなく、弁信さんだから申しますが、わたしはどちらをも愛しているのです、どちらもわたしは好きな人で、どちらをも憎めないでいます」
「あなたのそれは、世にいう娼婦の情けというようなものではありません」
 この言葉が、お雪ちゃんにはよくわかっていなかったが、
「そういうわけではありませんが、今度の人は宇津木兵馬さんというのが本名で、それも今日にはじまった縁ではなく、上野原以来、奇妙な縁がつながっているのです。でも、あの人がいては、弁信さんに限っての話ができませんから、こうしてあなたの後を追いかけて、こんなところでゆっくりお話のできるのがかえって安心だと思いました。まあ、何からさきにお話ししていいかわかりませんから、思いついたまま、順序なくお話をしますから、弁信さん、ゆっくり聞いて下さいな」
 お雪ちゃんはこう言って、なんとなく暢々《のびのび》した気にさえなったのです。先程からの急促した気分はようやく消えて、ここではじめて、昔馴染《むかしなじみ》に逢って、心ゆくばかり話のできるような気分にさえなりました。
 だが、あたりの光景を思い合わせると、決して左様な暢気《のんき》なものばかりではないのです。ただ、今日は不思議に噴火の爆音が途絶えたような気がする。毎日毎日連続的に聞かされていた焼ヶ岳方面の火山の音というものが、今日に至って終熄《しゅうそく》したというわけではないが、噴烟《ふんえん》はここ十里と隔たった高山の宮川の川原の土手までも、小雨のように降り注いでいるのです。
 ですから、天地はやはり晦暝《かいめい》という気持を如何《いかん》ともすることはできません。弁信の方は最初から、それは滞りがありませんでしたけれども、このごろ怖れおののいていたお雪ちゃんが、今はそれをさえ忘れて、春の日に長堤を歩むような気分に、少しでも打たれていることは幸いでした。ここで、弁信に向ってお雪ちゃんが、一別以来のことを、それから宮川の堤の長いように語り出しましたが、いつもお喋《しゃべ》りの弁信がかえって沈黙して、いちいちお雪ちゃんの言うことに耳を傾けながら、緩々《ゆるゆる》として歩いて行くのであります。お雪ちゃんとしては、白骨山中のロマンスや、グロテスクのあらゆる経歴を説いて、いかにあれ以来の自分の身の上が数奇を極めたかを、弁信の頭の中に移し植えようと試むるらしいが、弁信としてはいっこう感じたようでもあり、いっこう感じないようでもあり、ただ不思議に、あれほどのお喋りが一言も加えないで、お雪ちゃんの話すだけを、長堤の長きに任せて、話させて、歩調だけを揃えているのです。こうして、長い時の間、弁信はお雪ちゃんにお喋りの株を譲って、自分は全く争うことをしなかったが――その甚《はなは》だ長い時間の後に、
「お雪ちゃん、ちょっとお待ち下さい、誰か人が来るようですから」
 そこで、お雪ちゃんが、はじめて長いお喋りの腰を折られました。
「え」
と言って、四方を見廻すには見廻したけれども、ここは長堤十里見通し、その一目見た印象では、誰も土手の前後と上下を通じて、人の近づいて来るような気配はありません。人の気配には気がつかなかったのですが、お雪ちゃんが、そのとき愕然として驚いたのは、直ぐ眼の前の宮川の岸辺に漂うた破れた屋形船であります。
 ああ、思い出が無いとは言わせない、この屋形船――あの大火災の時の避難以来。
 それと同時に眼を移すと、遥かに続く蘆葦茅草《ろいぼうそう》の奥に黒い塚がある。
 あ、イヤなおばさん――お雪ちゃんの面《かお》の色が変りました。
「たれか人が来ますねえ」
 それに拘らず、弁信は、長堤十里見通しの利《き》くところで、人の臭いの近いことを主張してやみません。
 その途端のこと――思い出の屋形船の一方の腐った簾《すだれ》がザワついたかと見ると、それが危なっかしく内から掻《か》き上げられると、ひょっこりと一つの人間の面《かお》が現われました。その思いがけない人間の面の現出が、お雪ちゃんを驚かすと同じように、先方の面の持主をも驚かしたと見えて、現わすや否やその面を引込めてしまいました。
 この場合、先方よりはこちらの方が予備感覚のあっただけに、認められることが遅く、認めることが早かった勝味はありました。
 先方の当の主はおそらく、こちらが何者であるかということは突きとめる余裕がなくて首を引込めたことがたしかと見られるのに、こちらはその瞬間にも、存外よく先方の面体を認めることができたのです。
 お雪ちゃんは、その瞬間の印象では、この辺で、ちょっと灰汁抜《あくぬ》けのしたイナセな兄さんだと認めると共に、どうもどこかで見たような男だと感じました。
 だが、わざわざ物好きにあの捨小舟《すておぶね》を訪れてみようという気もせず、むしろ
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