ろんでしまったものです。
 相応院の入相《いりあい》の鐘がしきりに、土手を伝い、川面を伝って、この捨小舟《すておぶね》を動かしに来るのだが、がんりき[#「がんりき」に傍点]の耳には入らないと見えて、暫くすると、またいい寝息で寝込んでしまいました。
 この時分、捨小舟とは程遠からぬ川原の蘆葦茅草《ろいぼうそう》の中の、先達《せんだっ》てイヤなおばさんの屍体を焼いた焼跡あたりから、一つのお化けが現われました。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の出動するのさえ早い時刻だから、お化けの出動はいっそう早過ぎると見なければならない時間に、お化けがうろうろしている。こんな業の尽きないおばさんの魂魄が、焼いても焼ききれるはずはないから、その焼跡にまだうろうろしていることも一応は不思議ではないが、ここに出現したのは、あの脂身《あぶらみ》たっぷりなイヤなおばさんの幽霊としては、あんまりしみったれで、景気のないこと夥《おびただ》しい。それは自分の焼かれた焼跡をしきりにせせくって、舐《な》めたり乾かしたり、何ぞ落ちこぼれでもありはしないかと、地見《じみ》商売のような未練たっぷりのケチケチしたお化けぶりです。
 いっそ、こんなしみったれな真似をしないで、思い切って娑婆気《しゃばっけ》を漂わせ、幸い、最も手近なるところにがんりき[#「がんりき」に傍点]というあつらえ向きの野郎がいるのだから、そこらへ一番持ちかけて行ってみたらどんなものだろう――イヤなおばさんのこってりした据膳《すえぜん》を、がんりき[#「がんりき」に傍点]の奴がどうあしらうか、これは浅公なんぞよりはたしかに役者が上だから、おばさんとしても多少の歯ごたえはあるだろう……たぶんその辺の当りがなければと、あらかじめイヤなおばさんはイヤなおばさんとして、相当のおめかしもしなければならない。いいかげん水びたしにされたり、焼かれたりしたずうたい[#「ずうたい」に傍点]を、なんぼなんでも、このまんまで色男の前へ出されもすまいじゃないか――そこでおばさんは焼跡の土をせせくって、何やら相当の身じまいにうきみをやつしているものだろうか。
 ところが、蘆葦茅草の中の一方がガサガサとザワついて、そこから、そろそろと忍びよる一つの物がある。
 幽霊もまた友を呼ぶのだろうと見ていると、その蘆葦茅草の中がザワついたと見る瞬間、身じまいをしていたはずのイヤなおばさんのお化けが、びっくり仰天して立ち上るや、転がり、震動して、その場を逃げ出してしまったのはあんまり意気地がない。
 その意気地のないお化けの図体が、こちらの水たまりのところで踏み止まったのを見れば、なんの……これはイヤなおばさんその人の亡霊でもなんでもない、以前、一度見たことはあるが、根っから見栄えのしない、いつぞやあちらの焼跡の柳の下で、どじょうを掬《すく》っていた紙屑買でありました。
 この紙屑買の名を、この辺ではのろま[#「のろま」に傍点]清次と言っている。察するところ、この紙屑買ののろま[#「のろま」に傍点]清次は、あの晩、ああして焼跡をせせくった味が忘れられず、何でも焼跡と見ればせせくって、もの[#「もの」に傍点]にしなければ置かない性分と見える。そこで今晩は、イヤなおばさんの焼かれ跡へ眼をつけて、ここまで忍んで来ていたなどは、のろま[#「のろま」に傍点]どころではない、生馬の目を抜く代り、死人の皮を剥ごうという抜け目のない奴であります。
 何となれば、あの焼跡では、あんな怖い思いをしたけども、同時に、相当なにか獲物にありついた覚えがある。今はもう、掘りつくし、せせりからしてしまったあとへ、バラック建築がひろがってしまったから、しゃぶってもコクは出て来まいが、それに就いて思い起したのは、あのイヤなおばさんの焼跡である。本来、この町の目ぬきのところを、あんなに焼いて、自分にも多少|儲《もう》けさせてくれた恩人というものは、一にあの穀屋のイヤなおばさんの屍体の処分から起っている。
 そのくらいだから、その本元をせせってみれば、まだ何か落ちこぼれが無いとも限らない、あのおばさんの屍体は、とうとう河原の中で焼き亡ぼされる運命におわってしまったが、その焼跡の灰を安く入札したものがあるという話も聞かないし、おばさんの屍体を焼いて、粉にして、酒で飲んだものがあるという噂《うわさ》も聞かない。
 身につけたもので、金の指はめ[#「はめ」に傍点]だとか、パチン留めだとか、銀の頭のものだとか、煙草入の金具だとかいうものを、焼灰の中からせせり出す見込みはないか。
 紙屑買ののろま[#「のろま」に傍点]清次は、今晩それに眼をつけて、イヤなおばさんの焼灰の跡をせせりに来たものに相違なく、決して最初想像したように、おばさんの亡霊が、心やみ難き未練があって、うきみをやつして化けて出たものではない。
 そうなってみると、一方から、この小胆にして多慾なる紙屑買をオドかして、蘆葦茅草をガサガサさせたいたずら者の何者であるかということも、存外簡単な問題であって、それは貉《むじな》でした。

         二十七

 土俗の間では、貉と狸とは別物になっているが、動物学者は同じものだと言っていることは前巻にも言った。ともかく、このせせこましいうちに、多分のユーモアを持った小動物は、東方|亜細亜《アジア》特有の世界的珍動物の一つとして学者から待遇されている。人を化《ばか》すとか、腹鼓《はらつづみ》を打つとかいう特有の芸能を見る人は見る人として、犬族としては珍しく水に潜り、木にのぼる芸当を持っているということを学者は珍重する。食物にも選り嫌いというものが少なく、小鳥も食い、蛇も食い、野鼠も食い、魚類も食い、昆虫も食い、蝸牛《かたつむり》も、田螺《たにし》も食うかと思えば、果実の類はまた最も好むところで、木に攀《よ》じ上ることの技能を兼ねているのはその故である。
 ただ、かくの如く、器用であり、魅惑的の芸能を持ち、食物に不平を言わない当世向きの性格を持ちながら、自分が自分としての巣を作ることを知らない、他動物の掘った穴の抜けあとを探しては、おずおずとそこを占領して自分の仮りの住家とする、追い出されれば直ちに出て行く代り、岩の穴でも、木のうつろでも、身を寄せて雨露を凌《しの》ぐところさえあれば、そこに身を寄せてまた不平を言わない代り、いつまで経っても自分の力を以て文化住宅を営もうなんていう心がけはないのです。
 この原始的にして、進取の心なく、抵抗の力に乏しい小動物は、今し夜陰、こうして食物をあさりに出たものと見える。その出動がはからずも、紙屑買であり、焼跡せせりであるところの、のろま[#「のろま」に傍点]清次の仕事を脅《おびやか》す結果になったとは自ら知らない。
 自分が人を脅して、かえって自分がそれにおびやかされている。
 紙屑買ののろま[#「のろま」に傍点]清次は水たまりのところまで息せき切って避難してみたが、この敵は存外手ごたえがなく、いつぞや焼跡で見た幽霊であり、辻斬の化け物であり、柳の下で組み伏せられた若衆のような手硬い相手でないことに気がつくと、またそろそろと、おばさんの最期《さいご》の焼跡の方へ立戻って来ました。
 立戻って来て見ると、もう、あの東|亜細亜《アジア》特有の小動物はいない。
 胸を撫で下ろすと共に、紙屑買ののろま[#「のろま」に傍点]清次はカンテラをつけて、またも現場のせせり掘りをはじめました。
 現場をせせくっているうちに、のろま[#「のろま」に傍点]清次も変な気になったものと見え、
「へ、へ、へ、この後家様、これがなア、ずいぶん罪つくりの後家様だなあ。話を聞くと、屍体とはいえまだ脂っけがたっぷりで、腋《わき》の下の毛なんぞも真黒けだってなあ。生かして置けば、まだまだどのくれえ男をおもちゃにしたことかわからねえ。ほんとうに天性の淫乱というのが、この穀屋の後家様だあな。へ、へ、浅さんもかわいそうに腎虚《じんきょ》で殺されちまったなあ。高山の町からもえらいのが出たものさ。この穀屋の後家さんが関で、それに続いちゃ、あの嘉助が娘《あま》っ子《こ》のお蘭さんだなあ。あのお蘭さんなら、イヤなおばさんのあとはつげらあ、後生《こうせい》おそるべしだなあ。昔、上《うえ》つ方《がた》に、すてきもない淫乱の後家さんがあって、死んでから後、墓地を掘り返して見たら、黄色い水がだらだらと棺の内外に流れて始末におえなかったと、古今著聞集という本に書いてあるとやら。この穀屋の後家さんの屍体なんぞも土葬にすりゃその伝だろう。イヤ、土葬にしなくても、いやにこの辺がじめじめしてきた、イヤにべとべとした泥が手につきやがらあ、いい気持はしねえなあ」
 こんなことをつぶやきながら、もしや金の指はめ[#「はめ」に傍点]でも、もしも銀の髪飾りでも、もしや珊瑚樹《さんごじゅ》の焼残りでも――当節は貴金属がばかに値がいい、江戸の芝浦で、焼あとのゴミをあさって大物をせせり出して夜逃げをしてしまった貧乏人があったそうだが、成金になって夜逃げもおかしいが、この不景気に大金を手に入れた日にゃあ、夜逃げでもしなくちゃあ――仲間に食い倒されてしまう、としきりにひとり言を言い、広くもあらぬ屍体の焼かれあとを一心不乱にせせり散らしている。
「イイ気持はしねえ、どうもイヤな気持になったなあ、穀屋の後家様、お前はしてえ三昧《ざんめえ》をして死んだんだからいいようなものの、その焼跡をせせくっている、この紙屑屋の清次なんぞは、してえことをしたくってもできねえんですぜ、イヤな気持になったよ、穀屋の淫乱後家さん……」
 のろま[#「のろま」に傍点]清次が、うわずったたわごと[#「たわごと」に傍点]を吐きながら、地面をせせくっていると、
「わっ! 貴様、そこに何しとる」
 お国なまりの大喝《だいかつ》。
「へッ!」
 のろま[#「のろま」に傍点]清次は腰を抜かしてしまいました。
 今度のは東亜細亜特有の小動物ではない、まさしく、日本の国の或る地方の作りなまり[#「なまり」に傍点]を持った人間の声が、自分の仕草を見届けた上に、一種の威圧を以て頭から一喝して来たものだから、のろま[#「のろま」に傍点]清次はほんとうに驚いてしまい、ヘタヘタと腰を抜かしたけれど、その抜かした腰のままで、いざりが夕立に遭ったように河原の真中へ逃げ出してしまいました。
 紙屑買ののろま[#「のろま」に傍点]清次が、一たまりもなく逃げ出した後で、その置きっ放しのカンテラを取り上げて、
「ザマあ見やがれ」
 苦笑いしながら、現場を一通り照らして見ている男。これが、さきほどまで捨小舟の中で、うたた寝をしていたがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵でありました。
 それにしてもたった今、うしろからかけたおどしの一喝、
「わっ! 貴様、そこに何しとる[#「とる」に傍点]」
 何しとるというような訛《なま》りは、甲州入墨で江戸ッ子をもって任ずるがんりき[#「がんりき」に傍点]の地声ではない、特におどしを利《き》かす場合のお国訛りに相違ないでしょう。
「のろま!」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]はカンテラを持ち上げて、清次が逃げて行った方を冷笑気分に見廻し、
「ぼろっ買い! だが、のろまがのろまでねえ証拠には、ぼろっ買い、とうとう味を占めやがった、抜け目のねえのろまめ! 消えてなくなりゃあがれ、うふふ」
 見ればいつのまにか、もうキリリとした道中姿になっていて、四通八達、どちらへでも飛べるように、ちゃんと身拵えが出来て来ている。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が、カンテラを提げて、宜しく河原の中に立って、暫く四辺《あたり》を見廻していると、四辺はひっそりしたものだが、東の方は炎々と紅く燃えている。
 昼は黒く見える爆烟《ばくえん》が、夜はああして紅く見えるのだ。

         二十八

 まもなくこのやくざ野郎のキリリとした旅姿が、宮川筋の芸妓家《げいしゃや》の福松の御神燈を横目に睨《にら》んで、格子戸をホトホトと叩くという洒落《しゃれ》た形になってい
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