返して、その人をたずねて、あの苦しみを取戻さねばならない、それにしては出立が違っていた、もう一足も、こんな旅は続けられない。
 お銀様の悩乱と昂奮は、ついにここまで到着しましたけれど、お銀様は米友ではありません。米友ならば、昂奮した時がすなわち行動に移るの時であるけれども、さすがにお銀様にはその余地があります――
 ただ、旅行というものを極度に忌避《きひ》する一念がこうまで昂上してみれば、今後のことは時間の問題のみであります。熱火に溶け行くような胸と腹を抑《おさ》えつつも、つとめて冷然と立っているのがお銀様の一つの習い性でなければなりません。

         十一

 そうしているお銀様の足許へ、その腰のあたりまでしかない一つの小さい物体が現われました。
「モシ、桑名からの二番船はまだ着きませんですか」
「え」
 思いを天上にのみ走《は》せていたお銀様が、ぎょっとして眼を地上におろすと、これはまた、天上に空《くう》なる今の弁信の生《しょう》の姿が、現実にここへ落ちて来たかと思われるばかり――よく見ればもとより違います。弁信よりは、もう少し稚《ちい》さい、十一二歳でもあろうか、やっぱ
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